家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略 周囲の反対を押し切って戦った家康だったが…

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それゆえに、武田方は三方ヶ原で「魚鱗の陣」(魚の鱗のような陣立て。軍を人の字形に展開させた攻撃用の陣)をしいて、待ち構えていたのである。

『三河物語』は「敵(武田軍)が丘から祝田(浜松市北区)へ半分ほど下っていたところで、攻撃をかけたなら、容易く勝てただろうが、逸って早く仕掛けてしまった」と残念そうに書いているが、信玄軍は待ち構えの態勢にあったのであり、戦の結果はそう変わらなかったであろう。

武田軍の「魚鱗の陣」に対し、徳川軍は「鶴翼の陣」(鶴が翼を広げたような陣立て。V字形に展開させた守備用の陣)を布く。

戦は、軍勢同士がぶつかって始まったのではない。『三河物語』によると「信玄はまず足軽を送り、小石を投げさせた」という。

『信長公記』にも緒戦(はじめの戦闘)で、「武田方は、水股の者(足軽か)を300人ばかり前線に立て、小石を投げさせ、その後、太鼓を鳴らし、攻撃をしかけてきた」とある。徳川軍を攪乱しようとしたのだろう。そして、いよいよ軍勢同士の乱戦となるのだ。

『三河物語』は、徳川軍は武田軍の小石攻撃を相手にせず、一斉に切り込んだと書かれている。そればかりか「一陣、二陣を打ち破り、敵の繰り出す兵も破り、信玄の本陣に殺到した」と徳川軍が善戦したかのように書いてある。

家康は大きな敗戦を経験

一方の『信長公記』には、緒戦で、信長が派遣した平手汎秀やその家臣、家康の身内衆の成瀬藤蔵が討死したことが記される。その後も、信長の小姓衆だった者が、先頭に立ち戦い、討死したことが記載される。徳川方が信玄の本陣にまで迫るほどの善戦をしたとは一言も書いていない。

さて『三河物語』の記述に戻ろう。同書は、徳川軍が信玄本陣に迫るほどの活躍を見せたものの、信玄の本陣からも鬨の声をあげて攻めかかってきたため、多勢に無勢、攻め返されて敗退したと記す。

戦いは、午後4時頃から始まり、2時間ほど続いたとされるが、家康はその生涯のなかでも特筆すべき、大きな敗戦を経験することになったのである。

(主要参考文献一覧)
・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017)
・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010)
・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書、2022)

・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版新書、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス  天下人の危機回避術』(ワニブックスPLUS新書、2022)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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