家康が敗れた「三方ヶ原の戦い」信玄の巧みな戦略 周囲の反対を押し切って戦った家康だったが…
家康はそれでも「兵数が少ないのは仕方がない。敵の大軍が自らの屋敷の裏口を踏み破り通ろうとしているのに、家に籠もり、咎めない者があろうか。負けたら、負けたときのことだ。ともかく、戦をしなければならない。戦は多勢無勢で決まるわけではない。天運による」と言い、ついに開戦が決定される。
家康としても、自軍が不利であることは十分承知であった。しかし、一戦も交えずに、敵を見すごしたとなれば、援軍を派遣してくれた信長に申し訳ない。援軍を送ってくるということは、戦えということである。
また敵を見すごせば、家康自身の侍としての名誉も立たなくなるだろう。遠江や三河の豪族が武田方に降伏していく現状もあり、それを食い止めるには、合戦し、存在感を示し、求心力を回復する必要もある。
とは言え、策もなく出陣しても、宿老たちが言うように、危険なだけだ。今、武田軍は三河方面に向かっている。そこを背後から急襲し、幾分なりとも打撃を与え、すぐに浜松城に引き返せば、損害も大きくならず、名誉も保てる。家康は、逡巡しながらも、最後にはそうした結論に達し、家臣が止めるのも聞かず、開戦を決めたようだ。
信玄による堀江城の攻略説も
一方で、歴史学者の平山優氏は、信玄が、浜名湖水運を掌握する要衝・堀江城(静岡県浜松市、城主は大澤氏)を攻略しようとし、家康はそれを阻止するために出陣、信玄に戦いを挑んだと説く(同氏『新説 家康と三方原合戦』NHK出版新書、2022年)。浜名湖水運が武田氏の手に渡れば、浜松への物資の輸送が困難になるからだ。そうなると、家康は籠城を継続することはできない。危機的状況に陥る。
さて、信玄の軍勢は、三方ヶ原(静岡県浜松市)で家康軍を待ち構えていた。信玄は、前述したように、家康が信長から援軍を送られたことを知っていた。援軍まで送られながら、我が軍の通過を見すごすはずはない、家康は必ず城から打って出てくると信玄は踏んでいたのだろう(前述の堀江城の件も、信玄の頭にあったであろう)。
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