海外旅行で「教養つく人」「つかない人」分ける視点 旅の予習をすれば、観光地を見る目も変わる
フランス革命に対しては、革命の波及を恐れた周辺国がイギリスを中心に対仏大同盟を結成しました。
しかし、1806年にナポレオンが主導して西南ドイツ16邦を神聖ローマ帝国から離脱させてライン同盟を結成したことで、ここに神聖ローマ帝国は消滅することになりました。ナポレオンに惨敗し、大きく領土を縮小されたプロイセンは内政・軍制・教育などの国政改革に専念することとなったのです。
このときに設立されたのが現在のベルリン・フンボルト大学です。ベルリンがナポレオンに占領された後の1810年に、教育改革の一環として言語学者であったフンボルトが設立し、「西洋近代化」「ナショナリズム高揚」などの文化人による上からの改革が進められました。反ナポレオン感情を高めた「ドイツ国民に告ぐ」の連続公演を行ったフィヒテが、この大学の初代学長です。
また、ベルリンの有名な観光名所に「ブランデンブルク門」があります。もともと城塞都市だったベルリンで、フリードリヒ2世の父が要塞化を廃止し、代わりに関税門として設置したものの1つです。ベルリンに遷都されるまで、ブランデンブルク選帝侯が首都としていたブランデンブルクと、新首都のベルリンを結んだ道に造られました。
スペインやドイツのように、「世界史」の中心となりやすい場所は、その国が今の形になるまでの数百年、数千年の流れを頭に入れておくと、関係する地域同士のつながりが見えてくると思います。有名な観光地を訪れる際に、ぜひこのような予習をしてみてください。
“絶景”の背後にある歴史にも注目したい
近年海外旅行ファンの熱い視線を浴びている絶景スポットにも、当然歴史のダイナミズムはあります。
アジアとの東方貿易を担った中世ヨーロッパの五大海洋共和国の1つに「ラグーサ共和国」があります。ヴェネツィア共和国が「アドリア海の女王」と呼ばれたのに対し、街の美しさから「アドリア海の真珠」と呼ばれました。それが現在のクロアチア共和国最南端・ドゥブロヴニク旧市街です。
15~16世紀には隆盛しましたが、17世紀後半の大地震で街は崩壊。大航海時代に大西洋沿岸が貿易の中心に移ったことも衰退の一因でした。19世紀前半からはオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)の支配を受け、徐々に観光地化していきます。観光目玉の1つである城壁歩きの「城壁」はこの頃に整備されました。
20世紀にユーゴスラヴィアの1都市となり、1979年には世界遺産に登録されましたが、ユーゴスラヴィアの解体によって始まった90年代のボスニア内戦で悲劇が襲います。
1991年にクロアチア共和国が独立を宣言すると、セルビアを中心とした新ユーゴ軍の7カ月にわたる砲撃にさらされました。石畳や建物のタイルの色の違いなどから損傷の大きさがわかります。
一時、危機遺産にも登録されましたが、内戦後は急速に復興し、ジブリアニメの舞台にもなり多くの人に知られる魅力的な街に復元されたのです。
この旧ユーゴスラヴィアが位置するバルカン半島は、4世紀のローマ東西分裂後に東ローマ帝国の支配下に入りました。旧ユーゴスラヴィア構成民族の大半が南スラヴ系ですが、スロヴェニア・クロアチア人はローマ=カトリックを信仰、セルビア・モンテネグロ・マケドニア人は東方正教会を信仰しています。
さらに、オスマン帝国支配の影響でイスラーム教徒も住んでいます。このことが、現代における宗教・民族紛争にもつながっているのです。こうした背景を念頭におき、スタリ・モスト(*)の絶景を眺めながら、民族・宗教共存の難しさを語り合うのもよいかもしれません。
*スタリ・モスト:オスマン帝国全盛期のスレイマン1世の命によって造られた橋。ボスニア内戦時に破壊され、内戦ののちに和解の象徴としてユネスコの支援により再建された。
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