武田家のルーツをさかのぼると、源頼義にたどり着く。その一族からは、源頼朝や足利尊氏が輩出されている。名家中の名家である。源頼義の子孫の1人、武田信義が初代の甲斐武田氏となり、その子孫が武田家として甲斐の地に根づく。
武田信義から18代目にあたるのが、信玄の父、武田信虎である。この信虎がとにかく暴君で、暴虐の限りを尽くしたらしい。日蓮宗の僧侶が記録した『勝山記』は、山梨県の中世を研究するうえで一級の史料とされている。『勝山記』では、信虎についてこう書かれている。
「余りに悪行を成され候」
悪行とは穏やかではない。『塩山向嶽禅菴小年代記』ではより手厳しい。同書は、向嶽寺の歴代住職によって書き継がれた甲斐国の年代記で、こんな描写がなされている。
「平生悪逆非道也、国中人民・牛馬・畜類共に愁悩す」
普段から非道なことばかり行って、民衆はもちろんのことだが、牛や馬までが信虎の悪政に思い悩んでいたという。
人民だけではなく動物まで悩ませる暴君は、古今東西を通じてみてもなかなかいない。やや表現がオーバーな気もするが、評判が悪かったのは確からしい。だが、信虎には信虎の言い分もあったことだろう。
内紛の真っただ中で育った信虎
信虎は明応3(1494)年の正月に信縄の長男として生まれたが、武田家は内紛の真っただ中。信縄と、信縄の弟の油川信恵の間で、争いが繰り広げられていた。信虎にとっては、父と叔父が対立するなかで、幼少期を過ごしたことになる。
権力を手にした父の信縄が亡くなると、信虎は13歳で家督を継ぐ。すると、幼い信虎に容赦なく、信恵らが襲いかかってきた。甲府盆地を中心に繰り広げられる骨肉の争い。当主が幼いからといって遠慮はない。むしろ、幼い相手だからこそ、鋭い牙を向ける時代である。
それでも信虎は若輩ながら、信恵らに見事な勝利を収めて、その後も国人の領主たちを押さえていく。甲斐を支配するなかで、信虎はとりわけ有力な敵対者だった大井信達の娘と結婚する。政略結婚だ。そうでもしなければ、国内をまとめるのは難しかったのだ。
なにしろ、独立性の高い国人たちは、いつでも武田家に反乱する可能性を持っていた。一方で、信虎の国人たちへの支配力は弱く、国人たちの所領の中にはほとんど立ち入ることができなかったという。そんなバラバラだった国内状況を踏まえれば、信虎が強引に統率した事情も理解できなくはない。
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