そんななか、信虎と大井信達の娘の間に生まれたのが、のちに信玄となる晴信である。荒れた政情のなかで生まれた信玄は「戦の申し子」とも呼ばれていた。
信虎は、なんとか国内をまとめようと、「棟別銭」という家ごとを対象にした課税を負わせた。これも家臣たちからすれば当然、評判が悪い。しかし、甲斐国の財政を思えば必要なもので、信虎が甲斐国の統一をほぼ果たしたからこそできた経済政策だった。
そうして、強引に財政基盤を固めると、信虎はいよいよ外へと打って出ることになる。小領主が抗争を続けていた信濃に標的を定めると、諏訪氏と同盟を締結。信濃への侵略を開始した。そして、1日で36もの城を落としたともいうから、すさまじい。
だが、大きなビジョンを持ちえない、家臣たちからすればどうだろうか。税金は重くなり、戦は増えた。戦のたびに、大きな負担がのしかかって来る。とんでもない暴君だと恨まれてもおかしくはない。
そんな国内の不満が高まって、信虎は駿河に追放されてしまう。それも、実の息子である晴信、つまり信玄の手によって追い出されることになる。信虎はその後、二度と甲斐へと戻ることはなかった。
国家の財を散財して、私利私欲を満たす古今東西の暴君たちに比べると、信虎は「暴君」とは言いがたい。ただ、民衆の気持ちを汲み取ることができなかったために、反感を買ってしまったのである。
クーデターに担ぎあげられた信玄
信虎を追放すると、ようやく厄介者がいなくなったと、民衆は沸きに沸いたようだ。文献からも歓喜する様子が伝わってくる。
「地家・侍・出家・男女共に喜び満足致し候こと限りなし」(『勝山記』)
「一国平均安全になる」(『王代記』)
「国の人民ことごとく快楽の笑いを含む」(『塩山向嶽禅菴小年代記』)
だが、ここまで極端な記述が目立つと「どうしても主君を追い出したことを正当化しなければ」という思惑も透けて見える。というのも、若き信玄がいくら立ち上がろうと考えたとて、支持者がいなければ、クーデターなど成立しない。反信虎派の家臣たちが、シンボル的に信玄を後継者に祭り上げたからこそ、信虎をことさら暴君にしなければ、つじつまが合わなくなってしまう。
もちろん、信玄自身もそのことはよくわかっていたに違いない。自分に力があって、勝ち取った地位ではない。周囲に盛り立てられて座った当主の座である。もし、自分もまた父と同じように、下で働く人間にそっぽを向かれたらどうなるか。想像をするなというほうが難しいだろう。
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