結婚後の菅原孝標女の勤務スタイルは、たまにタイミングが合ったとき――すなわち自分の手が空いていて、呼ばれたときだけ、出仕するというものだったらしい。しかもどうやら1人の貴族にずっと仕えるというものではなく、呼ばれた人のところにそれぞれ行くのみだった。
たしかに、これでは顔も覚えてもらえない。今でいう派遣社員やパートのような立ち位置の女房が、平安時代にもいたのだなあ、と私は彼女の日記を読むと思う。
紫式部や清少納言が活躍できたワケ
菅原孝標女の言う「育児や家庭に使っていた時間を、派遣やパートタイムじゃない正社員型の勤務に使えていたら、今の自分の地位はどうなっていたのかしら」という妄想。これはかなり現代にも通じる悩みではないだろうか。現代のブログかな?と思うような内容である。
というのも平安時代の女房といえば、藤原彰子にずっと仕えた紫式部や、自分が仕えた“お姫様“こと藤原定子のことを随筆に残した清少納言のような働き方を想像してしまう。が、それは紫式部が夫と死別、清少納言は離婚しており、夫の転勤に左右されない立場だったから成立した働き方だったのだ。
菅原孝標女のように、夫が転勤ありの役職で、子どももいるような状況では、「ずっと宮中に詰める」女房になることは難しい。だからこそパートタイム女房勤務しかできなかった。そしてその状況を、彼女はたんたんと日記につづっている。
現代にも通じるテーマである、「夫の転勤についていくとキャリアが途絶える」問題。これを平安時代にすでに指摘していたなんて、菅原孝標女が聡明で優れたエッセイストだったことが、よくわかる。1000年早いよ!その問題、いまだに解決してないよ!と私は菅原孝標女と語り合いたくなる一文である。
しかし救いとしては、菅原孝標女は職場で何人か仲良くなった女性がいたらしいことである。数人、女房仕えをしたときに気の合う友人ができたらしい。彼女たちとは、その後も和歌のやりとりが続いていた。直接会うことはなかなか叶わなかったらしいが、手紙のやりとりができる女友だちができたことは、きっと彼女にとって僥倖だったのではないだろうか。
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