「人間一人では生きていけない」を正面から考える 「個人の原理」と「共同体の原理」の決定的違い

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過疎化が進んだとはいえ、僕たちが暮らす東吉野村ではまだまだ共同体主義的な自治の強さを感じます。地区自治会や神社の氏子会、消防団など、地縁・血縁に基づく共同体が息づいているからです。

現在、僕が氏子となっている八幡神社には常住の宮司はおらず、いくつかの神社を管理する方が祭りの祈祷時だけ来てくれます。それ以外の清掃や維持管理、祭りの準備や片付けは、僕たち氏子の役員が行っています。しかし、氏子の高齢化が進み、数は減少し、会費も少なくなっていくなかで、神社自体を存続させることも難しくなってきているのは全国的な課題でしょう。

「自分」より「他人」を優先する理由

現在、僕は神社の氏子の役員をしており、かつては地区の連絡員などもしていました。もともとはリバタリアン的な思想を持っていた僕も、山村ではコミュニタリアン的な発想が実感としてわかるようになってきました。都市は人が設計して作った空間ですが、人が作ったものには必ずエラーやバグが生じます。しかし、このエラーやバグを考慮に入れてシステムを作れるほど、人間は賢くありません。

だから人はどうするかというと、エラーやバグを見ないようにすることで、「なかったこと」にするのです。都市にだって想定外のことはたくさん起きているのですが、都市という舞台装置の設定上、人が設計していないものが存在してはならないのです。

そのエラーやバグのことを自然と呼ぶことができます。山村に住んでみると、人間が自然を制御できるはずがないことは一目瞭然です。したがって、人間は一人では生きていけないことを実感するし、神様にお供えをして手を合わせることに必然性が芽生えます。

人間が一人では生きていけないゆえに、共同体の維持が物事の最優先事項であることも納得できます。このように、僕はコミュニタリアン的な思考が理解できるようになりました。

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