「人間一人では生きていけない」を正面から考える 「個人の原理」と「共同体の原理」の決定的違い
この活動は基本的には自分たちのためであり、市場原理だけで社会が覆い尽くされてしまうことへの危機感とそれへのリアクションが、長い目で見ると人類のためにはなると思っていますが、直接的に地域の人たちのために行っている活動ではありません。
しかし、住んでいる地区の仕事や神社の氏子の役員などはしています。人間は個人だけでは生きていけないことはわかっていますが、かといって共同体のことを常に最優先事項にして暮らしていかねばならないとなると、自由が毀損されているように感じます。
「個人の原理」と「共同体の原理」
そもそも、個人と共同体は原理が異なります。個人の原理は等価交換で、共同体の原理は贈与です。等価交換とは、同じ価値のもの同士を渡し合うことを意味します。しかし、本来は、交換したい2つのものが同じ価値なのかどうかは判別不能です。
例えば、大根と車が同じ価値かは誰にもわかりません。お腹が空いている時に車だけがあってもしょうがないかもしれませんが、大根があったほうが腹がふくれる可能性はあります。しかし、現代社会に生きる僕たちは、大根が1本120円くらいで、車が軽自動車であっても100万円近くすることを知っています。
等価交換の原理が社会の前提にあるからこそ、お金の多寡が価値の大小だと思うことができます。等価交換の原理が働いているからこそ、働いてお給料を稼いで、そのお金で生活をしていくことが可能となるのです。
しかし、共同体は贈与が基本です。等価交換では物が欲しければそれだけの価値の量のお金が必要ですが、大げさに言うと共同体ではお金は必要ありません。同じ共同体に属しているという関係性があるからこそ、物をあげたり、もらったりすることができます。
というよりも、物をあげたりもらったりし合うことで、生存に必要な共同体を維持していくことを可能にしているのです。共同体の基本原理が贈与だというと、とてもほっこりした幸せな空間をイメージするかもしれませんが、あげたりもらったりすることは返すこととセットです。
このあげることと返すことは贈与と反対給付という用語で表され、互酬性と呼ばれています。互酬性は人間関係を作るための仕組みであり、共同体の基本原理です。この原理によって作られている共同体が「しがらみ」にまみれているのは、ある意味で当たり前のことで、「しがらみ」をつくることによって生きながらえていくという、共同体の生存戦略だと言えるからです。
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