「人間一人では生きていけない」を正面から考える 「個人の原理」と「共同体の原理」の決定的違い

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だから僕は、みんなが同じことをする合理的な理由があればしたのでしょうが、その理由を誰も説明してくれないし、生活のなかで実感として見出すことはできませんでした。

自分のためになりそうもないことには身体が動かない。これは都市の原理が内面化した、僕のような人間の行動原理なのではないでしょうか。

「共同体」は「個人の延長線上」に過ぎないのか

まず個人が存在し、その個人が自由に生きていくために社会があるという考えがあります。このような個人主義のことを自由主義(リベラリズム)といいます。さらにその考えを押し進めると、リバタリアニズムと呼ばれます。この考えを持つリバタリアンは、自分たちこそ正統なリベラルだという意味も込めて、「古典的自由主義者」を名乗ることもあるといいます。

リバタリアンは個人的な自由、経済的な自由の双方を重視します。また、他者の身体や正当に所有された私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は、基本的に自由であると主張します。現代アメリカ社会をフィールドとする文化人類学者の渡辺靖は、リバタリアンの特徴をこう述べています。

一般的に、社会問題の解決手法として、①強制力を有する第三者が統制するヒエラルキー・ソリューション、②市場のメカニズムを活用するマーケット・ソリューション、③当事者間の自発的な協力に依拠するコミュニティ・ソリューションの3つがある。リバタリアニズムの特徴は、①をまさに極力最小化しようとする点にある。強制によらない、自発的な協力や取引に基づく社会。それこそが自己と他者の自由や幸福が不可分に結びついたユートピアを可能にすると考える。
(渡辺靖『リバタリアニズム』中公新書、88頁)

僕は個人と集団の関係について考えた時、まず個人が存在し、そのために共同体や社会があり、その延長線上に国家があると考えています。

一方、国家やその下部組織として共同体があり、それを形成する最小単位として個人が存在しているという考えもあります。この共同体主義はコミュニタリアニズムと言われます。コミュニタリアンは主体と社会の関係を考えた時に、個人は特定の共同体のなかで生まれ育ち、その共同体において特有の価値を身につけることによってはじめて主体になると主張しました。

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