三菱の国産ジェット機が撤退に追い込まれた必然 政府も含めたビジネス感覚、当事者意識の欠如

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三菱重工のスペースジェット(旧MRJ)(写真:三菱航空機)

海外への情報発信として千載一遇のチャンスなのに、海外関係者の招待が少なく、主に日本の業界関係者で飲み食いしているようではやる気を疑われても仕方あるまい。在仏日本大使館によると外国人の参加者を絞ったのは、「大使公邸のキャパシティの問題」であるとのことだったが、ならば最初からホテルの宴会場を借りればいいだけの話である。大使公邸を借り切るメリットはない。単に三菱重工と政府のパイプを誇示したかっただけではないかと思ってしまった。

三菱重工は「戦闘機を開発生産できるわが社の実力をもってすれば、リージョナルジェットなど簡単に開発できる」と思っていたかもしれない。ただ、防衛産業は防衛省が主たる顧客であり、事実上国営企業と同じで、その他はボーイングなど外国メーカーの下請けで言われた通りにコンポーネントを作ることが主体となる。

つまり顧客が本当に何を必要としているか、また顧客からの厳しい性能や品質、コスト削減の要求は相対的にシビアでなかったのだろう。そもそも防衛省では一般に他国の軍隊ではやっている、何機をいつまでに生産して、その総額はいくらかという調達計画を策定してメーカーと契約を結ばない。これで一般的な事業計画は立たない。

自らどのような飛行機が市場で売れ、そのために何が必要で、自社には何が必要かということを真剣に考えず、「事業」がビジネスであるという意識が希薄だったように見えて仕方ない。

航空ショー出典で見た三菱の姿勢

航空ショーへの出展でも三菱の「世間知らずぶり」が目立った。

胴体モックアップにしても、普通のメーカーならばパビリオン内に展示し、誰でも見られるようにするのだが、三菱重工はシャーレー(接待所)内部に作って、招待されないと入れないシステムだった。しかもプレスに対しても時間を厳しく制限していた。

筆者には1990年代に航空ショーや軍事見本市に参入してきたソ連崩壊後のロシアの企業とダブって見えた。当時のロシアの企業は、カタログは粗末な更紙にロシア語で書かれたものばかりで、英語の喋れるスタッフもおらず、担当者はウオッカを飲んで赤い顔をしていた。とても商売をやっているとは言えない状態だった。精神論かもしれないが、自分たちがこのビジネスの新参者であり、どうしたら顧客に物を売れるか、謙虚に市場から学ぼうという態度が見受けられなかった。

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