徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳 泥臭い下工作を行って朝廷にもアプローチ

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徳川家康
松平元康から徳川家康に改名した理由とは?(写真:えのすけ/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第8回は、「松平元康」から「徳川家康」に改名した狙いについて解説する。
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室町幕府の将軍との関係性も重視した家康

徳川家康は「とにかく耐え忍んで、結果的に天下を手にした」というイメージで語られがちだ。次の有名な狂歌は目にしたことがあるだろう。

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」

だが、家康はただ転がり込んできた「天下」を、手中に収めたわけではもちろんない。天下を意識したかどうかはともかく、一旗揚げるべく、かなりアグレッシブにチャンスをつかみにいっていた。

今川義元が織田信長に討ち取られると、今川氏を見限って織田氏と同盟を組んだのも、「強い者には逆らわない」という家康のシンプルな生き残り術を実践するべく、積極的に動いた結果だった(前回記事『今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳』参照)。

ただ、それだけで安心することなく、家康は室町幕府の将軍との関係性も重視した。家康は、室町幕府第13代征夷大将軍である足利義輝に馬を贈っている。実のところ、将軍は信長、家康、今川氏真の3人に、飛脚に用いる馬を要請していた。それにいち早く反応をしたのが家康だった。将軍は御内書(将軍が発給した文書)にこう残している。

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