「悩みは人に話すとラクになる」が大誤解な理由 善意の「共感」が実は危険な「共同反芻」を招く

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進化上の観点からすると、このアプローチに価値があるのは、一人よりも二人のほうが捕食者を追い払いやすいからだ。

困っているときに団結すれば、揺るぎない強みとなる。この考え方は、ストレスを感じているときに他人と手を携えると、安心感や連帯感が得られるという研究結果によるものだ。

こうした感情は、ストレスを和らげる一連の生化学的反応――自然に作られるオピオイドとオキシトシン(いわゆる抱擁ホルモン)が関係している――を引き起こし、帰属するところを求める人間の基本的な欲求を満たす。

そしてもちろん、これを実行する中心的な方法は「話をする行為」だ。アクティブ・リスニングを行い、共感を示して、チャッターについて助言を与える人びとが、これらの欲求に対応できる。

こうした欲求が満たされると、その瞬間はいい気分になり、ある種の安心感も得られる。だが、これは等式の半分にすぎない。私たちは「認知的な欲求」も満たさなければならないからだ。

「距離を置いて考える」ことの重要性

チャッターに対処していると、私たちは解決しなければならない問題に直面する。暴れ回る内なる声に抑圧されつつも、当面の問題に取り組み、視野を広げ、最も建設的な行動方針を決定するために、ときには外部の助けが必要になる。

これらはいずれも、支援してくれる人が優しくしてくれたり話を聞いてくれたりするだけでは対処できない。

私たちがしばしば他人を必要とするのは、自分の経験についての考え方から距離を置き、それを一般化し、変えるためだ。そうすることによって、行き詰まった反芻から抜け出し、言葉の流れを変え、気持ちを落ち着けられるのだ。

だがこれは、気持ちについて語ることが大きな助けになる可能性を持っているにもかかわらず、往々にして逆効果になってしまう理由でもある。
心がチャッターでいっぱいだと、認知的な欲求よりも感情的な欲求を満たすことを優先させようとする強いバイアスが働く。つまり、動揺しているとき、私たちは実際的な解決策を探すよりも共感してもらうことに集中しすぎる傾向があるのだ。

このジレンマは、支える側における同様の問題によってさらに複雑になる。助けてもらおうと私たちが手を伸ばす相手も、同じように反応し、私たちの認知的な欲求よりも感情的な欲求を優先させようとする。彼らは私たちの苦痛を見て、何よりも愛と受容で包もうと努める。これは自然なことで、世話をするという意思表示であり、短期的にはときに有益ですらある。

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