だが、もっと認知的な支援がほしいと私たちがシグナルを送っても、対話者はこの合図を見逃しがちだと研究で実証されている。
ある一連の実験によれば、支える側は、認知的な欲求に対応するアドバイスを与えるようはっきり求められていても、依然として相手の感情的な欲求に対処することが大事だと考えているという。
しかも、そうした感情的欲求を満たそうとすると、往々にして裏目に出て、友人が気分を害してしまうことがわかっている。
では、話すことはどうやって間違った方向に進んでしまうのだろうか。
善意がもたらす「共同反芻」という罠
人びとは、自分が感情的な支えとなるためにそこにいることを示そうと、私たちが動揺したときに何が起こったのかを正確に突き止めようとする――「誰が、何を、いつ、どこで、なぜ」起こしたのか、と。
彼らは私たちに、何を感じたのか、何があったのかを詳しく話すよう求める。私たちが起こったことについて話しているあいだ、彼らは頷いて共感を示すかもしれない。
だが、それによって私たちは、支えを求めるよう最初に私たちを突き動かしたまさにその感情と経験を追体験するのが普通だ。この現象は「共同反芻」と呼ばれている。
共同反芻は、支援が扇動へと微妙に変化する重要な分岐点だ。私たちのことを心にかけてくれる人びとは、否定的な経験についてもっと話をするよう私たちを促す。すると、私たちはさらに動揺し、彼らはさらに質問する。
こうして悪循環が続いていく。そこに簡単に飲み込まれてしまうのは、この循環が善意に突き動かされているからにほかならない。
実際には、共同反芻は、すでに燃え上がっている内なる声の炎に新しい薪を投げ込むのと同じことだ。語りを繰り返すと、不快な感情が蘇り、鬱屈とした気分が続くことになる。
こうした形で私たちに関わる人びとのせいで、つながりや支援をいっそう感じる一方、計画を立てたり、当面の問題を創造的に組み立て直したりすることはできない。その代わりに、ネガティブな感情や生物学的脅威反応が強まるのだ。
(翻訳:鬼澤忍)
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