毎朝口にする「パン」に潜んでいる驚きの"真実" 英語だらけの洋食用語、ブレッドと言わない訳
フランスと結んでいた幕府が、イギリスと結んでいた薩長に倒されると、在日外国人の多数派がフランス人からイギリス人へと変化していきます。横浜市史編集委員会編『横浜市史 第三巻下』によると、明治初期には横浜在住の外国人のおよそ40%がイギリス人になり、多数派を占めるようになります。
前出の尾髙煌之助『明治のお雇い外国人たちと産業発展の構図』によると、1874(明治6)年にはお雇い外国人のうち、50%をイギリス人が占めるようになります。
当時のイギリス人家庭には、家庭内に専任のコックを雇い料理を作らせるという習慣がありました。日本在住のイギリス人家庭も、日本人をコックとして雇い、イギリス料理を教えたのです。
現存する中では日本最古の西洋料理本、仮名垣魯文の『西洋料理通』は、横浜のイギリス人が日本人コックのために作ったイギリス料理マニュアルを編集出版したものです。
『西洋料理通』の挿絵には、イギリス家庭のコックが計5人登場しますが、そのすべてがちょんまげあるいはざんぎり頭の日本人です。
彼ら日本人コックによって東京にイギリス料理が普及することになるのですが、その過程については拙著『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』を参照してください。
こうしてイギリス料理の普及とともに洋食用語は英語が中心となっていったのですが、「パン」というフランス語はすでに日本人社会に広まっており、上書きされることはありませんでした。
そして「pain」が「bread」に上書きされなかった理由は、もう1つありました。
国産小麦粉の性質が関係した
イギリス式の柔らかいブレッドは、グルテン含有量が多い強力粉で作ります。
ところが日本の小麦粉(うどん粉)は、強力粉よりグルテンの少ない中力粉。中力粉では硬いフランスパンは焼けても、 イギリス式の柔らかいブレッドはうまく焼くことができなかったと、『パンの明治百年史』にあります。
国産小麦粉の性質の関係で、東京にイギリス人が増加しても、パン屋のパンはフランスパンのままでした。再び『パンの明治百年史』によると、1877(明治10)年頃から強力粉が輸入されるようになり、イギリス式のパンが焼かれるようになっていったそうです。
幕府とフランスとの関係と、日本産の小麦粉の性質。この2つの要因により、日本においてフランス語の「パン」が定着したのです。
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