高浜:はい。最初の頃は「ガロ」という雑誌で連載しており、20ページ以下ぐらいの枠で連載させていただいていました。その中で描けることというと、やっぱり日常のことにかぎられてくるわけです。私、その頃茨城に住んでいたのですが、結構田舎なんですね。
塩野:筑波ですね。空や風景とか、その感じがすごく出ていますよね。
高浜:田舎で行動範囲がかぎられていたので、やっぱりそういう自分の生活内でのテーマが多くなっていました。あんまり壮大なことには目がいかなくて。
塩野:でも登場人物は外国人が多いですよね。日本人と外国人、男性と女性とかの、ダイアログというか、会話でガーッと迫ってくる漫画だなと思っていました。その会話は、創作の中でどんどん浮かんでくるのでしょうか?
見よう見まねで描き始めた
高浜:そうですね。ある程度のストーリーは最初に作っているけれども、会話は描くうちにどんどん浮かんでくるんです。ちょうどその頃は、国立環境研究所で秘書のバイトをしていまして、やっぱり変わったキャリアを持っている、いろいろな理系の人たちが来られていたんです。
外国人の客員研究員の方たちも、同じスペースで働いていました。同じ職場の同僚の人たちが、南極の基地に転勤になったこともあります。
塩野:昭和基地ですか。
高浜:はい。そういうことがリアルであるような場所でした。
塩野:そういう意味では、初期は私小説のように、私的なことを描かれていたんですね。
高浜:初期の頃に、フランス人のフレデリック・ボワレさんという人と知り合ったんです。のちにコラボ作品の仕事を一緒にしたりもしたのですが、この方が、自身と思われるキャラクターを出すのが好きなんですね。その手法を面白いなと思って、よく使っていました。たとえば自分の延長のことを描いたり、私と思われるキャラが出てきたりするけれども、性別が違ったりしています。
塩野:あの『泡日』で出てくる「えっちゃん」は高浜先生ですか?
高浜:私みたいなキャラクターだなと自分でも思っています。ちょうどその頃、私がしていた髪型や、私が着ていたセーターを着せていますしね。
塩野:今おっしゃったフランスの作家さんや、B.D.(ベー・デー/バンド・デシネ)の影響を受けていると、ご自分でも思われますか。
高浜:私、日本でマンガの描きかたを教わったことがなくて、アシスタント経験もないんです。見よう見まねで描き始めたのも、大学に入ってからですし……。いちばん最初にいろいろなスキルや、生き方、作家としてのスタンスを教えてくれたのは、フランスの作家たちだったんですね。
塩野:アシスタントをご経験されていない。すると最初から、ピュアというか、真っ白なところにそういうものの影響があったんですね。
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