対人折衝能力は、重要な能力ではあるが、うさんくさい資質でもある。だから、うちの国のような流動性の低い社会では、コミュ力そのものは、長い間、「軽薄才子」の人格属性として、軽んじられていた。
が、時代のスピードが加速し、社会構造や情報環境が千変万化(せんぺんばんか)することになった世のなかでは、多くの職業がサービス業化し、手を使ってモノを作ったり、足を使って商品を運んでいる人間よりは、舌先三寸で差益をカスりにかかる人間の方が優遇されるようになっている。
かくして、ナンバーワンホストにコミュ力を学ぶみたいなセミナーが客を集める、どうにも不愉快な時代が到来してしまったわけだ。
対人マナーの基本が銀行の窓口じみてきている
職業柄、編集者と行き来することがいちばん多いのだが、この20年ほどの彼らの変化について言うと、平成以降入社の比較的若い世代の編集者は、それ以前の編集者に比べて圧倒的に腰が低い。
私自身が馬齢を重ねて、先方にとって年長の存在になったということを差し引いて考えても、対人マナーの基本が、銀行の窓口の人間じみてきている事実はやはり指摘しないわけにはいかない。
「かしこまりました。至急手配します」
と、こんな言葉づかいは、20世紀の間は、聞いたことがなかった。特に大手の出版社の社員は、おしなべて、非常に「感じのいい」若者が多い。というよりも、なんだか呉服屋の手代(てだい)さんみたいに物腰がこなれていて、私は、いつもなんだか取り残された気持ちを味わう。
おそらく就職倍率の高さがああいう空気を読む能力に長(た)けた、流線型の編集者を生んでいるのだと思う。
彼らの態度がいけないというのではない。
感じがいいことは、よいことだ。
ただ、わがままを言わせてもらえればだが、編集者との間で、時に殺伐とした会話を交わさなければならない立場の人間としては、彼らのあの余裕の構えは、なんだか小面(こづら)憎いのである。
大きくない出版社の編集者の、おどおどしていたり、ぶっきらぼうだったり、不器用だったりする電話をもらうと、私はほっとする。
人間というのは、不完全なものだよ。
byボナール
by小田嶋隆
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