昨今の風潮では、この種の対人的な適応能力の低さは「コミュ障」(「コミュニケーション障害」の略らしい)という言葉で一括処理される。
むごいいい方だと思う。
が、この言葉は、無慈悲な決めつけである一方で、非常に使用頻度の高い、強力な差別用語になっている。
で、若い人たちは、自らのコミュニケーション能力(これにも「コミュ力」というイヤな略語がある。「こみゅか」ではない「こみゅりょく」と読む。読みにくさといい、発音のしにくさといい、実に劣悪な用語だと思うのだが、それでも、とてもよく使われている)を高めるべく、セミナーに通ったり、ビジネス書籍を買い集めたりしている。
日本を覆い尽くしている「コミュ力万能思想」
バカな話だ。が、バカな話ではあっても、「コミュ力万能思想」は、この国をすっかり覆い尽くしている。
原因は、おそらく、長らく続いた20年来の不況と、その間に定着した就活ミッションの異様な過酷さに由来しているのだと思う。
そんなこんなで、意識の高い学生は、自分が気さくで、フレンドリーで、友だちの多い、快活で、ポジティブで、機転の利く、輝くような若者であるというふうに見せかけるべく多大な努力を払っている。
なんと哀れな話ではないか。彼らは、そういうコミックマンガの島耕作の若手時代みたいな青年でないと企業に評価されないと思い込まされているのだ。
ここでは、コミュ力の話をする。
私自身は、先ほどの話とは別に、実際にはまるでコミュ力のない人間ではない。やればできるかと言われれば、できないこともない男ではある。
が、やりすぎると壊れるということもまた事実ではあるわけで、結局のところ、
「その気になればそこそこ器用に人当たりのいい人間を演じることも可能なのだが、そういう無理を続けていると、じきに神経がイカれてしまう」
ぐらいのところを、行ったり来たりしているわけだ。
まあ、因果な性分だということです。
それでも、私が若い者であった時代には、コミュ力の低さは、必ずしも致命的な欠点とは見なされていなかった。小むずかしい本を読んで暗い顔をしている男が女にモテる時代は既に終わっていたが、それでもまだ、
「明るいだけの奴はバカだぞ」
という思想は、根強く残存していた。