【前編】大河の主役「徳川家康」先祖の波瀾万丈 有名な葵の御紋と加茂神社の意外な関係も

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流れ者の名が「親氏」なのか「信武」かは不明だが、便宜上、ここでは「親氏」としておこう。親氏は、信重の娘との間に、男子2人、女子1人を得たが、急死したという。親氏がいつ生まれ、いつ死んだかは分からないが、14世紀の後半から15世紀の初めにかけて活躍した人物だと考えられる。

親氏の亡きあと、その後継者となったのは、松平泰親であった。『三河物語』によると、泰親は親氏の子と記されている。そして、親に負けず劣らず、この泰親も勇猛の士であり、情の人であったという。

『松平由緒書』は、泰親は親氏の弟と記す。親氏には、信光という子がいたが、親氏が死去した後、泰親が幼少の信光の「名代」(家督を代行する者)となり、親氏の邸に住んだために、泰親が2代目に数えられたとされる。

泰親は、約3年ほど当主を務め、その後、家督を親氏の長男・信広に譲る。自らの家の後継者には、信光をあてた。泰親に関する同時代史料としては、若一神社(愛知県岡崎市岩津町)の棟札写が知られている。

応永33年(1426年)、泰親(法名・用金)が「子孫繁昌」「心中所願成就円満」のため、同社の社殿を造立したこと、翌年には十一面観音像を造立したことが、そこから分かる。泰親の後を継いだ信光は、室町幕府の政所(幕府の財政や直轄地を管理する機関)執事(長官)・伊勢氏の被官(家臣)となり、岩津を拠点として活動していく。

三河国は足利家と縁が深い

三河国は、足利家と縁の深い土地である。鎌倉時代には、足利氏が守護を務めたし、室町時代には、一色氏・細川氏といった足利一族のものが守護を務めてきた。

しかし、三河国には、将軍に近侍して諸役を務める奉公衆が多く、守護の力がそれほど強大ではなかったようだ。そうした三河の情勢もあり、松平信光も幕府政所執事の伊勢氏と主従関係を結んだのであろう。

ちなみに、松平一族のなかには、15世紀中頃に、京の都に邸を構え、畿内で金融活動を行う益親という人物もいた。彼は、琵琶湖の最北部にある大浦荘や菅浦荘の代官として、百姓から年貢を受け取る立場でもあった。

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