「新自由主義大政翼賛」から転換する方法はあるか 「民主的多元主義」による経世済民の復活可能性
労働者階級の価値観は、まさにその逆、つまり地域主義やナショナリズムの性格を強く持っていたのではなかったか?
文体にうかがわれる絶望
管理者エリートが社会を支配するメカニズムと、当の支配が成立するにいたった経緯を論じている間、『新しい階級闘争』は現実をみごとに直視した本として浮かびあがります。
ところが、それにたいする処方箋を提示する段になると、現実との接点が失われてしまい、経世済民をめぐるリンドの夢想だけが突っ走っている印象を与えるのです。
論より証拠、このくだりに入ると「〜すべきである」「〜する必要がある」「〜しなければならない」といった表現がしきりに出てくる。
最終章の最終段落(246ページ。そのあとにエピローグがついています)など、わずか9行の文章に「〜すべきである」が3回登場したあげく、「〜しなければならない」で締めくくられました。
現実性そっちのけで「べき論」に終始している、そう言われても抗弁できた義理ではありません。
裏を返せばリンド自身、みずから提示した処方箋が実践不能ではないのかと絶望している形跡がうかがわれる。
そのせいでしょう、『新しい階級闘争』の文体には、いささか気になる特徴があります。
議論の展開を通じて、おのれの主張の正しさを納得させるというより、最初から自明に正しいものとして押しつける書き方をしている。
不必要に独断的なのです。
他方、管理者エリートの視点に立った言論を批判するときは不必要に攻撃的。
「他人を見下すような博識ぶり」(164ページ)「ジャーナリスティックな常套句や胡散臭い学説」(168ページ)「ぐうたらなジャーナリストや半可通の評論家」(173ページ)といった具合です。
このような言い方をせずにいられないのは、自信のなさを隠したがっている表れと相場が決まっている。
だとしても、管理者エリートの支配という現実を的確に直視し、民主的多元主義の復活という正しい処方箋まで提示しながら、なぜそんなに自信がないのか?
おわかりですね。
リンドは「現在の階級闘争が、望ましい形で収拾される」ことに自信が持てないのです。
だからちょっとしたことで、自分の主張が全否定されたかのような気になってしまうのに違いない。
評論家の中野剛志は、本書の巻頭に収録された解説を「私は、リンドの思想に全面的に賛成である」と結びました。
これに異存はないものの、賛成するだけでは十分ではありません。
私たちはリンドの思想に賛成しつつ、リンドの絶望を回避しなければならないのです。
民主的多元主義による経世済民は、本書に学び、かつ本書の限界を乗り越えたとき、はじめて復活すると言えるでしょう。
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