2008年には堺市立図書館がBL関連本を一斉に閉架書庫に移したことが問題となったり(結局、BL本も通常の本と同じように所蔵されることになった)、広島での原爆を描いたマンガ『はだしのゲン』が2011〜2013年、各地の図書館で相次いで回収措置や閉架措置などを取られたことも話題になった。
いずれの問題も、BL本が公序良俗にふさわしくない、戦争中の差別語などがそのまま描かれていることが教育上ふさわしくないといった理由からこのような問題が起こったわけであり、それらはそうした本が「公共的」にふさわしくないと思った人々によって起こされた問題だった。
今後もこのような問題が起きるのかはわからないが、図書館における「公共性」の難しさは、多くの人が住む空間において「公共性」の定義がそれぞれの人によって異なることである。ある人にとってはBL本はみなの利益にとってふさわしくないと判断するからこそ、その本を公開するな、という要求が起こる。
しかし、その判断はある人にとってはまったく公共的でない場合もある。両者の「公共」観が衝突した時に、それは問題となるのである。このように、「公共性」は、多様性の担保を考えた場合に、きわめて難しい問題を私たちに突きつける。
図書館が持つジレンマは、多様性ある空間を担保しようするために、結果として、なにかを排除せざるをえないということだ。多様性の維持のために「意図」が必要になる。
ブックオフの「公共性」とは
翻って考えたいのはブックオフのことだ。
私は以前、ある文章で、ブックオフとは新しい図書館なのではないか、と書いたことがある。
もちろん、そんなわけはないし、これは一種の比喩なのだが、図書館と比べてみても、やはりそこには「意図性」があまりにも少ない。ただそれは買い取られた商品が並べられているだけであるし、一貫したコンセプトは何も感じられない。
しかし、そのような状態こそ、図書館が象徴する公共性とはまた異なる「公共性」ともいえるものを持っているのではないか。
ブックオフに「公共性」を認めることに強い拒否感を覚える人もいるはずだ。それもそのはずで、ブックオフは一企業であって、それはまったく公共的な事業ではない。
それにかつて話題になったような(そして創業者も自著の中で回想している)買い取りの際に売れる見込みのない、古い本を廃棄していたことは決して歓迎されるべきではない。
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