放火が原因?「後鳥羽上皇」北条追討の意外な経緯 承久の乱の遠因といわれる「源頼茂の乱」とは?
兵火により、大内裏の殿舎が焼亡するという前代未聞の出来事。これに後鳥羽上皇は衝撃を受けます。後鳥羽上皇が同年8月中旬から1カ月以上も病床にあったのは、大内裏焼亡が大きな契機になったと言われています。
頼茂の乱は、そもそもが、将軍職をめぐるものでした。いわば、幕府内の権力闘争の一部です。それが原因となって、大内裏が燃えてしまった。また、実朝を易々と暗殺させてしまった幕府にも、上皇は怒りを募らせていたでしょう。実朝暗殺がなければ、頼茂の挙兵もなかったかもしれません。それやこれやで、上皇の幕府に対する憤りは増し、最終的には承久の乱につながっていったのではないかと思います。
大内裏の再建はスムーズに進まず
上皇は、大内裏の再建に執心しますが、その裏には、代々の天皇が伝承する三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)が平家に持ち去られている状況で即位したコンプレックスもあったのではないかとされます。
大内裏の再建には莫大な費用がかかることもあり、スムーズにはいきません。諸国に臨時の課税をしますが、それを拒否する動きも出てくるのです。越後の守護は義時、加賀守護は義時の次男・朝時とされますが、この両国の地頭も造内裏役を拒否していたと考えられています。いうとおりにならない幕府に上皇は業を煮やしたでしょう。
1220年10月中旬には、殿舎・門・廊などの立柱・上棟の儀式にこぎつけることができましたが、その後、造営は中止されます。承久の乱で上皇は敗れ、配流となったこともあり、造営は再開されませんでした。
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