放火が原因?「後鳥羽上皇」北条追討の意外な経緯 承久の乱の遠因といわれる「源頼茂の乱」とは?

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まず、頼茂は、源頼政の孫にあたります。頼政と言えば、以仁王(後白河法皇の第3皇子)と結び、平家に対して挙兵。平家の討伐を受けて、宇治の戦いに敗れ、自害した清和源氏の武将として知られています。1180年のこの以仁王の挙兵を契機に、源頼朝はじめ各地の反平家勢力が兵を挙げ、いわゆる治承・寿永の内乱(源平合戦)が勃発しました。

その大きな役割を果たした頼政の孫が、頼茂。頼茂の父は、源頼兼という武将。頼兼は、1183年に大内裏守護の任についています。捕虜となった平重衡を南都(奈良)に引き渡すため、鎌倉から重衡の護送をしたりもしています。1195年の頼朝上洛のおりには、その東大寺参詣に随行してもいるのです。皇居の守護を担当しつつ、都と鎌倉を行き来することがあったことがわかります。

その頼兼の子が頼茂。頼茂も父に続いて、大内裏の守護を担っていました。そんな彼が、1219年に突如、挙兵し、結果的に大内裏を焼いてしまうのです。何があったのでしょうか。

将軍になる野心を抱いていた頼茂

『愚管抄』(鎌倉時代初期の僧侶・慈円が記した史論書)には、頼茂の反乱動機について、次のように書いています。「頼政の孫で大内裏に仕えていた頼茂というものが、突如として謀叛心を起こし、自らが将軍になろうと思ったということが露顕した」と。つまり、頼茂は将軍になろうとの野心を抱いていたのです。では、頼茂はなぜそのような野望を抱くようになったのでしょう。

その謎を解くには、1219年に何が起こったのかをたどっていかねばなりません。同年1月下旬には、鎌倉幕府のみならず、後鳥羽上皇にも衝撃を与えた3代将軍・源実朝の暗殺がありました。実朝は、鎌倉・鶴岡八幡宮に参詣している際に、鶴岡八幡宮寺別当の公暁により、殺害されたのです。公暁は、亡き2代将軍・源頼家の子でした。

「公暁は親の仇をとったぞ」(頼家は北条氏により鎌倉から伊豆に追放され、惨殺されます。その頼家の後継となり、北条氏に担がれたのが、頼家の弟・実朝でした)と叫んだといいますが、彼は将軍になる野心を抱いてもいたようです。実朝を殺せば、次は自分が将軍になれると踏んでいたのでしょう。

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