放火が原因?「後鳥羽上皇」北条追討の意外な経緯 承久の乱の遠因といわれる「源頼茂の乱」とは?
ですが、それは甘い考えで、公暁は北条氏の命を受けた三浦氏により、あっという間に誅殺されます。実朝には正室との間に子がありませんでした。よって、4代将軍をどうするかという問題に直面します。
幕府としては、当初、後鳥羽上皇の皇子を将軍に、との案を示し、朝廷もそれを受け入れていましたが、朝廷に対し好意的な実朝の死により、それは急変。上皇は自らの皇子を鎌倉に下向させることを「日本国を2つに分裂させることになる」と危ぶみ、難色を示すのです。
そこで、代わりに、九条道家の子でまだ幼少の三寅(後の4代将軍・藤原頼経)が、将来の将軍となるべく、鎌倉にやってくることになるのです。それが、1219年7月19日のことでした。
朝廷と幕府の妥協が、頼茂の「謀叛心」に火をつけた?
頼茂の挙兵から1週間もたっていません。頼茂は、当然、三寅が将来の将軍となるため、鎌倉に下ることを知っていたでしょう。三寅を後継将軍にするという朝廷と幕府の妥協が、頼茂の「謀叛心」に火をつけたのではないでしょうか。将軍になるため、挙兵するには今しかない。頼茂には焦りに似た想いがあったのかもしれません。頼茂も源氏であり、将軍になる資格はあったといえましょう。
『愚管抄』には、頼茂の野心が露顕したので、後鳥羽上皇は、在京の武士を招集したうえで、頼茂を院に呼びつけたとあります。しかし、頼茂は院に参上することはありませんでした。
そこで、上皇は頼茂が守護する大内裏を包囲し、頼茂を攻撃することになります。すると、頼茂は放火、大内裏は焼けてしまうのです(『愚管抄』)。実朝の後継として頼茂を考えていた後鳥羽上皇が、口封じのために、頼茂を討ち取ったのではとの見解もありますが、それを具体的に示すものはありません。
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