放火が原因?「後鳥羽上皇」北条追討の意外な経緯 承久の乱の遠因といわれる「源頼茂の乱」とは?

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皇屋敷跡石碑
岡山県にある、後鳥羽上皇が隠岐島に配流された際に一夜の露をしのいだといわれる場所(写真:ウサネコ/PIXTA)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいよいよ最終章に突入しました。執権となった北条義時に待ち受けるさまざまな困難。有力御家人・和田義盛との「和田合戦」。3代将軍・源実朝の暗殺。そして、何と言っても、後鳥羽上皇が義時を追討しようとした承久の乱。この承久の乱が、当時の鎌倉幕府を、義時を襲った最大の困難でしょう。

後鳥羽上皇は、同ドラマの「ラスボス」とも称され、注目を集めてきました。執権に就任し、京都守護だった平賀朝雅を討つなど、思うがままに振る舞う義時を「調子に乗りおって!」と怒る上皇。後鳥羽上皇は、義時と対決するということもあり、今回のドラマでは少し「悪役」として描かれているようにも感じます。上皇と義時が今後どのような確執を経て、乱に突入していくのかも注目されます。

ちなみに、上皇が義時を打倒せんとした遠因には、源頼茂(よりもち)が起こした反乱があるともいわれています。今回は、この源頼茂について見ていきたいと思います。

大内裏に放火して自害した源頼茂

承久元(1219)年7月25日、午後6時ごろ。伊賀光季の使者が都から鎌倉に到着します。そして、同じ月に都で起きた驚くべきことを報告するのです。その使者によると、先日13日、朝廷の命令に従わなかった源頼茂が、攻撃を受け、自害。頼茂は大内裏の仁寿殿に籠って、放火、最後に自害したというのです。

敷地内の建物にも、火は燃え広がり、仁寿殿の観音像、応神天皇の御輿、御装束や霊物などが灰燼(かいじん)に帰しました。これは鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』に載る記述ですが、そもそも、源頼茂とは何者なのか、そしてなぜ反乱したのでしょうか。

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