「パッションをもって生きろ」。それが田中さんの口癖だ。参考書に書かれていることを疑い、一つひとつ自分で確かめる。来る日も来る日もエスプレッソマシンの前に立ち、腑に落ちるまで抽出を繰り返し、詳細なデータを記録する。タンパーと呼ばれる器具に正確に体重をのせてコーヒー粉を固めるよう訓練を重ねたために、異様に逞しくなった田中さんの右腕。タンパーに当たる右手の親指には、ビー玉のような固いたこができている。
大型チェーン店化や多店舗展開には興味がない。彼にとって幸福とはゴージャスな生活ではなく、エスプレッソマシンの前に立つことだ。繰り返しの中に発見があり、斬新なアイデアが生まれていく。「自分が飲みたい味を追究していると、ふと、神さまからプレゼントがあるんです」。
ひらめきを得て、新しいレシピが考案される。開店当初から使い続けている単一農園のコーヒー豆「フラワーチャイルド」を使った「ダーティー」や「ジブラルタル」は、ベアポンドならではのオリジナルの味だ。
エンジェル・ステインが共通語になったように、それらの名前とレシピも広まり、100年後に世界のどこかで定番メニューとして愛飲されているかもしれない。
神さまは小さなプレゼントをくれている
しかし、信じた道を懸命に歩んでいても、神さまにプレゼントをもらえない人もいるのでは? そう尋ねると、田中さんは「見逃しているだけ」と即答した。「金や流行や本質以外のことを追っかけていると、小さなプレゼントに気がつけなくなる」。
田中さんは自分自身を「無邪気、天真爛漫」と笑う。型にはまった大人になってしまわないことも主義のひとつでしょうか? 「いや、この歳まで大人になれなかったんだから、もはやどうしようもないだけ(笑)」
どうしようもない。それしかできない。そこに全力を尽くしているから痛快なのだ。「金のために馬鹿げたきれいごとを並べるような大人に、なれなくてよかった!」と語る男が生み出す、血の通った一杯。私たちが街角のコーヒー店に求めるのは、そういう面白さではないだろうか。そんな一杯こそが飲む者の胸を熱くし、勇気を与えてくれるのだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら