田中さんは20代後半から東京の大手広告代理店に勤務し、若者に向けた缶コーヒーのCM制作などを手掛けた。1989年に退社してアリゾナ州立大学へ留学。猛勉強して2年間で卒業し、ニューヨークの広告代理店に入社するが、不運にもメインクライアントが破産した影響を受け、その広告代理店も破産してしまう。この時期が田中さんの精神的などん底だったらしい。
その後、苦境を克服して米国フェデックス本社に入社。2001年にはニューヨーク初の本格的スペシャルティコーヒー専門店【ナインスストリート・エスプレッソ】が自宅近くにオープンし、仕事場として日常的に利用するようになった。やがてシカゴやポートランド、サンフランシスコで新しいコーヒーの動きが起こり、サードウェーブと名づけられてニューヨークのコーヒーシーンを変貌させていくさまを、田中さんは渦中で体験することになる。
負け犬たちのコーヒー
「当時、ニューヨークのダウンタウンの狭いスペースでコーヒー屋を始めた奴らの中には、金がなくて地下鉄にも乗れない連中がいた。投げつけられた小銭を拾うような“Looser(負け犬)”が、『俺の淹れたコーヒーに金持ちがサンキューって言った!』って喜んで、生き甲斐を見出してさ。東海岸のサードウェーブの萌芽期には、そんなろくでもない愛すべき連中もいて、さまざまな動きと合わさってひとつの大きな潮流になっていったんです」。
2005年、田中さんはエスプレッソへの傾倒を深め、ロースター等が主催するパブリック・カッピング(テイスティング)に頻繁に参加するようになっていた。そんな折、イーストヴィレッジの巨大コーヒーチェーンの前でデモに遭遇する。
「その企業はコーヒー生産者との公平な取引をめざしてフェアトレードを推進していたが、デモは『おまえんとこは農家に還元してねえぞ』と抗議するものだった。当時、【カウンターカルチャー】や【インテリジェンシア】のようなロースターもフェアトレードでコーヒー豆を入手していたが、彼らも別の側面から『おかしいぜ』と言い始めていた。不正直な農家はフェアトレードを悪用して、粗悪なコーヒーを高く買わせていたんです。物事には両面があり、被害者は同時に加害者でもある。企業も農家もお互いさまなんですよ」
現状を変革しようとするロースターたちは直接コーヒー生産地に足を運び、ダイレクトトレードに積極的になっていく。また、豆の風味の特徴を引き出すために焙煎と抽出方法を見直しながら、地域に根ざした小規模のロースタリー&カフェのスタイルを模索していった。
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