要するに、それらは信仰の対象などではなく、「役に立つものが真理」という実用性が重視されていた。梅岩は、キリスト教的な唯一絶対神は信じてはいないが、各人が自然的秩序を体現する「内なる仏性」(「人間性」とも言い換えられる)を持っており、儒教的な「天」という非人格的な宇宙の秩序を信じていた。「すなわち宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させねばならない、という発想」(『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』)であった。
その根本から大きく外れていなければ、「三教」も、他の宗教や外来思想も「薬=方法論」として取り入れたというわけである。ここに山本は、「七五三は神社で、結婚は教会で、葬式はお寺で、でいっこうに差し支えない」といった日本的価値観の源流をみる。
前出の安丸も山本の説に近く、梅岩を「極度に唯心論的」と論じている(『日本の近代化と民衆思想』平凡社ライブラリー)。梅岩がキツネやタヌキが人を化かすといった呪術を否定したエピソードを紹介し、これを「『心』の無限性・絶対性」を信じる「唯心論」の裏返しと考えた。
取り上げた論点はほんの一部に過ぎないが、このような多面性を踏まえると、「日本人は無宗教である」という紋切り型の論評は、留保が必要といえそうだ。
信仰や信心は身近なところにある
もちろん「宗教」概念をめぐる問題もあるが、歴史的経緯を一瞥しても、簡単に判断を下せるものではないことが理解できるだろう。特に明治以降、宗教由来のある価値観が、ある時期を境に非宗教的な装いを施され、知らないうちに生活の中に根を下ろしていった例、あるいは「神」や「天」という文言が消えただけで、内実はそれらの秩序を暗黙のうちに序列化して、社会関係を拘束している例は枚挙に暇がない。
重要なのは、多かれ少なかれ信仰や信心は身近なところにあり、わたしたちが思っている以上にわたしたちの深層で作用しているということだ。筆者は、たまたま宗教2世であったために自分が何を信じているのか自問する必要に迫られることが多かった。今もその過程にあるといえるが、すべてを把握することの困難さを感じてもいる。日常生活でそのような機会は滅多に訪れるものではない。
けれども、わたしたちを突き動かしているもの、価値判断の拠り所としているものが、どこからやって来たものかを知ろうとすることは、自分たちの社会に底流する「何か」について再発見を促す好機になるだろう。
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