「日本人は無宗教」と信じる人が気づいてない真実 自然宗教、神道の国教化、心学…特有の3つの事情

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概念的にも「宗教」の定義に値するのは、キリスト教や仏教など高度に体系化された教義を持つものとされていた事情もあった。加えて、神仏分離と神社合祀などの政策により、「国家的神々」にそぐわない神仏や民間信仰などはことごとく一掃された。そうすると、当然ながら「宗教」が意味するものは、実質的に「創唱宗教」だけとなる。

わたしたちが「宗教」と捉えるものが、創始者の名前が明らかで組織化された教団があるものとみなしやすく、それ以外のものが意識に上りにくいのは、「自然宗教」の優越や、近代化に伴う「神社神道の非宗教化」などに、その歴史的な起源を求めることができるというわけである。

「石門心学」という根源的な思考

しかしながら、これだけでは「無宗教」にまとわりつくグラデーションを解明したことにはならない。概念上の認識や、国家政策の名残に還元できない、根源的な思考がかなり前から人々の生活に存在していた点に目を向ける必要がある。その糸口になるのが、江戸時代に急速に広まった民衆思想。一介の商人に過ぎなかった石田梅岩(ばいがん)が創始した「石門(せきもん)心学」だ。

「自然のはからい」を重視する古来の文化や、儒教・仏教・神道が対立することなく併存可能とする「三教合一論」などに基づいて作り上げたものだが、評論家の山本七平は、「しかし彼の思想の骨格は、あくまでも当時の庶民のもの」だと強調する(『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』PHP文庫)。庶民のための生活哲学、道徳教といわれるゆえんである。

山本によると、梅岩は、「人間の性=本心は、呼吸のごとく宇宙の継続的秩序と一体化しており、その秩序によって人が生かされているのだから、これは『善』いわば一種の『絶対善』であると考え、それが人間の本心の基本であるから、その本心の秩序通りに各人が生きれば、それがそのまま社会の秩序となると考えた」(『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』PHP文庫)という。

山本は、これを自然的秩序に順応するための一種のプラグマティズム(実用主義)だと述べる。梅岩の思想が非常に面白いのは、前記の「三教」が上手く使い分けられており、「いわば神が中心で、規範としての儒があり、仏には儒との合一性を基本とした一種の心理療法的効果しか認めず、いわば『薬効』しか期待していなかった」(前掲書)ところにある。

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