また、そこには「自分たちのほうが迷信にとらわれずに自由な立場である」といった優越感が潜んでいる場合すらある。最悪なのは、それが特定の宗教を差別したり、逆に、無自覚さが災いして問題のある宗教に取り込まれたりするなど、トラブルの遠因になることである。
なぜこんなにも複雑になっているのか。ここには日本特有の事情がいくつか絡んでいることが推測される。さしあたり主な論点を3つ提示できるだろう。以下は、それぞれが独自に作用しているというより、部分的に相互にリンクしていたり、重複したりしている。
(2)「神道の国教化」=明治以降、神道を非宗教化したことによる影響
(3)「心学」=江戸時代に始まった儒教的な側面を持つ通俗道徳の流行
最初の議論の前提として、一般的に、宗教とは、「人知を超えた存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度」と定義することができるだろう。神や仏といった名指しできるものや、超自然的な力や秩序の存在などを根拠に、生のあり方を説く信念の体系といえる。
まず「無宗教」を解き明かすうえで、有力な手掛かりを提供してくれるのが、宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)が唱えた「創唱(そうしょう)宗教」「自然宗教」という区分けである(『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書)。
「創唱宗教」と「自然宗教」
「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えて、それを信じる人がいる宗教のことで、教祖と経典、教団が三位一体で成り立っている宗教をいう。キリスト教や仏教などの伝統宗教から新興宗教までがその範囲に入る。
他方、「自然宗教」は、「いつ、だれによって始められたかもわからない、自然発生的な宗教のこと」で、教祖も経典も教団もない。祖霊信仰やアニミズム(精霊信仰)などがそれで、身近な例として厠神(かわやがみ、便所の神)や道端にあるお稲荷さんの祠(ほこら)などがわかりやすい。
阿満は、「『無宗教』とはいうが実際は『自然宗教』の優越、それが日本人の宗教心の内容」だと指摘する。その代表例に初詣とお盆を挙げる。多数の人々が神社に初詣に出かけ、お盆の時期には故郷に帰る。これこそが「日本人の多くが『自然宗教』の『信者』である証拠」だというのだ。本人たちにその自覚がまったくなかったとしても、お盆の帰省の原点に祖霊信仰がある限り、「『自然宗教』の重要な行事」だと述べる。
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