インセル的な反逆の暴力は、一部の極端な大量殺人者たちだけの問題ではない。たとえば精神科医の熊代亨によれば、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と深く悩んだ人々が、新しい生き方や稼ぎ方を体現するかにみえるインフルエンサー(影響力の大きい人)のオンラインサロンにハマっていく(「『何者かになりたい人々』が、ビジネスと政治の『食い物』にされまくっている悲しい現実」『現代ビジネス』)。
ところが、そこで本当に実用的な技能やコネを得られる人間は、あくまでもごく少数で、多くの人々は「有名な○○の身内である自分」という一時的な高揚感を得られるだけだという。それほどまでに「何者にもなれない」というアイデンティティの空洞は深い。
どんなに地道に働き真面目に生きたとしても、給与面はもとより、社会からの正当な評価や承認を得られず、切り捨てのような扱いを受けるだけではないか。だとしたら、チート(ズル)で楽な生き方をした方が合理的だろう。オンラインサロンにハマる人々の背後には、そうしたニヒリズムがある。
地道な成長も努力も不要な「論破」
あるいはいわゆる「論破」も、インセルにとっての暴力のように、持たざるものたちの武器であり、リベラルエリート社会に対する叛逆という側面があるのかもしれない。
論破とは、たとえ教養や知性がなくても、ある種の話法と自己暗示さえあれば、文化人や年長者に「勝利」できる、というテクニックのことだからだ。
重要なのは、他者の「論破」のためには、地道な成長も努力も不要である、ということだ。だからこそ、論破という叛逆は、生まれたときから何かを奪われている者、努力も成長も望めない者たちにとっての、チートな武器になりうるのである。
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