ベラルディによれば、彼らの行動は「スペクタクル的【見世物的、劇場的──引用者注】な殺戮を伴った自殺」のようなものである。つまりそれは、現代的な「絶対資本主義」(金融資本主義)がもたらす絶望への「痙攣的」な反応なのだ。その意味で、彼らの大量殺人は「われわれの時代の主要な傾向を、極端な形で体現」している、とベラルディは述べる。
古典的なタイプの大量殺人者たちは、他者の苦痛を求めて快楽を得るサディスト的な特性を持っていた。しかし、現代の大量殺人者たちにとって、殺人とは「自分を世間に知らしめたいという精神病理的な欲求」の「表現」であり、自殺は「日常の地獄から脱出を図る方法」である。
ベラルディは、現代は「ニヒリズムとスペクタクルの愚かさの時代」である、と論じる。現代の「ダークヒーロー」たちの大量殺戮的な犯罪は、映画と観客、虚構と現実の境界線を消滅させ、うんざりするような愚かしいスペクタクルの中にすべてを溶かし込んでしまう。
スペクタクル社会(ギー・ドゥボール)の新たな段階としての絶対資本主義において、人々はいっそう現実から疎外(=人間らしさの本質を失うこと)されるようになった。まさしく『マトリックス』や『ジョーカー』のように、である。
大量殺人者たちの「自己表現」
現代の「ダークヒーロー」たちは、大量殺戮という自滅的な表現行為によって、疎外から脱してリアリティ(現実性)を回復しようとする。このとき彼らは、大量殺人をほとんど現代アートのように行っているのだ。
ベラルディは、現代の金融資本主義の暴力──それゆえに再生産される大量殺人者たちの「自己表現」──を何らかの政治的処方箋によって解決しようとすることは不可能だ、とも述べている。
インセルやダークヒーローの暴力に対して、この社会は政治的に何もできない。かろうじて為しうるとすれば、それは「アイロニー」(皮肉)の戦略だろう、という。つまり、滑稽で悲惨な現実に対してアイロニーを貫くことによって、精神の自立をぎりぎり維持すること。もう、それくらいしかできないだろう、と。
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