テストの点数ばかり、親は気にかけていた。「今回は難しかったけれど、けっこう頑張った」と光世さん自身が思っていても、母は「それはクラスのなかで何番なの」「平均より上なの」としか尋ねてこない。「100点が当たり前」だったので、小学校のときにテストで60点を取ったときには、とても怒られた。
光世さんや兄が将来学校の先生になるのも、親には当然のことだった。「絵を描くのが好き」と言えば「じゃあ美術の先生だね」と言われ、「裁縫が楽しい」と言えば「それなら家庭科の先生だね」と誘導される。子どもたちは地元のトップ校に行き、地元の大学に進んで学校の先生になるのが当たり前。光世さん自身も「そんなものかな」と思っていた。
父親も母親と同様、「勉強をしておけばいい」という態度だった。東北の小さな町で校長をしていた父のことは、町中の人がよく知っており、両親もまた成績のいい子どもがどこの家の子か、よく知っていた。「先生の子どもなのに勉強ができないなんて、ありえない」という空気を、光世さんはつねに感じていた。
でも結局、光世さんは先生にはならなかった。兄が大学に進学した際に家を出たので、光世さんも「出ていいんだ」と気づいて、まねをした。
地元の大学は受験したふりをして、計画どおり、東京の大学へ進んだ。もし兄がおらず、自分がきょうだいの一番上だったら、ずっと親の言うとおりの人生を歩んでいたかもしれないと思う。
「べき」「ねば」を書きだしたら止まらなくなった
「うちは、よその家とちょっと違うのかな」と気づいたのは、上京して、大学に入ってからだった。友人らが「母親と買い物に行った」とか「こんな話をした」などと話すのを聞いて、そんなに親しい親子関係があるものか、と驚いた。
光世さんがいよいよ自分が育った環境に違和感を抱いたのは、結婚し、子どもを産んでからだった。「愛情をもって育てるって、何?」「だんらんって、どうやるの?」など、なぜか「できない」と感じることが、次々と出てきた。
「『自分で産んだ子どもは絶対かわいいでしょ』とか言われるのも、『え、なんで勝手にそういうことになっているんだろう?』とわからないし、『自分の命より大事でしょ』みたいに言われるのも、『うん……?』みたいな。『愛情とは』に、つまずくことが、すごく多かったですね」
娘と息子に感じる愛情の違いも、意識せざるをえなかった。息子のことは自然と抱っこできるのに、娘にはなぜか難しい。娘と接するときは、どうしても母親と自分の関係を思い出して、ぎこちなくなってしまう。「理想の親」になりたいのに、自分も親と同じようなことをしてしまうジレンマに苦しんだ。
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