「天才」には才能だけでも努力だけでもなれない訳 1万時間の練習で大成しても結果であり原因でない

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喜ぶ女性と落胆する女性、対照的な2人
膨大な努力を重ねても天性に恵まれていなければ「天才」にはなれない!?(写真:Fast&Slow/PIXTA)
芸術、科学、スポーツ、ビジネス、さまざまな分野でイノベーションを起こす「天才」たち。その能力は、生まれつきの才能?それとも本人の努力? 『イェール大学人気講義 天才 〜その「隠れた習慣」を解き明かす』から一部抜粋、再構成して全3回でご紹介。第1回「天才は『生まれつきか』『本人の努力か』永遠の論争」(8月28日配信)、第2回「天才の子どもが『大抵は天才じゃない』という真実」(9月4日配信)に続く最終回をお届けする。

努力にも限界がある

ここにちょっとしたジョークがある。ある若い音楽家がニューヨークに着いて、深く考えることなく尋ねた。「カーネギーホールに行くにはどうすればいいですか?」と。すると「練習さ!」という答えが返ってきた。

私もやってみたのだが、うまくいかなかった。努力にも限界がある。私の音楽教育は4歳から始まった。最初はアップライトピアノの「アクロソニック」で、愛想のいいテッド・ブラウン先生に習った。6年と経たないうちに、ピアノはボールドウィンのグランドピアノに進歩し、先生もワシントンDCで有数の先生に習うようになった。

コンサートピアニストになるために――次のヴァン・クライバーンになるのが私の目標だった――私は有名なイーストマン音楽学校に入学し、卒業した。22歳になるまでに、1万8000時間ぐらいは練習しただろうか。だが、コンサートピアニストとしては自分が一銭も稼げないことはわかっていた。

私はすべてにおいて有利だった。手は大きく、指も細くて長い。最高のレッスンも受けてきた。取り組む意識も高い。ただ、私にはたった一つ欠けていることがあった。音楽に関する優れた才能だ。確かに、才能はあった。しかし、ずば抜けて音感が良いというわけでもなく、旋律を記憶する能力が優れているわけでもない。音が聞こえれば自動的に手が動くというほどでもない。何一つ並外れたものはなかったのだ。

さらに、私には一つ、遺伝的な負の遺産があった。私はあがり症だったのだ。ピアノでもバイオリンでも、ほんのわずかな違いが、成功者とそうでない者を分ける可能性がある場合に、これは財産なんかじゃない。今でも、ピアニストとして「スタートし損ねた」この経験から、疑問に思うことがある。努力さえすれば、才能を天才に変えられるのだろうか? 練習すれば、本当に完璧になるのだろうか?

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