天才は「生まれつきか」「本人の努力か」永遠の論争 このシンプルな問いにもこれといった答えはない

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才能か努力か? 私が教える学生のなかには、両方の意見の支持者がいる。同じく、歴史を通じた天才たちのなかにも、両方の考えの人がいる。

特に優れたことをする能力は、預言者と神からの授かりものであるとプラトンは述べた。しかしシェイクスピアは、その著述を見ると、自由意志と独立の精神に重きを置いていたように思える。シェイクスピアは書いている。「なあブルータス、俺たちがこんな下っ端でいるのは、自分の星のせいじゃない、俺たち自身のせいだ」(『ジュリアス・シーザー』)と。

一方、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンはその自伝のなかで、「私たちの資質はほとんど生得のものである」と断言している。より最近では、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、「人は天才に生まれるのではない、天才になるのだ」と語っている。天才は、先天的か、後天的か。議論は終わらない。

その才能は、生まれつき?

天才たちは、自分の隠れた才能には気づかず、それに気づくのは他人のみ、ということが往々にしてある。ルネサンスの偉大な芸術家の伝記作家として評価されているジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)は、レオナルド・ダ・ヴィンチの天賦の才能に驚嘆し、次のような言葉で評した。

「しかし時として、自然の理を超えて、一つの肉体に美と優雅さと才能が溢れんばかりに集まることがあり、結果として、その人物がどんな姿勢をとろうとも、その動作はどれも余人の及ばぬほど神々しく見え、人はそれが神から惜しみなく与えられたもので(実際そのとおりなのだが)、人為によって得られたのではないことをはっきりと悟ることになるのである」。

レオナルドの才能の一つは、鋭敏な観察力であった。レオナルドには、動いているもの――飛翔している鳥の広げた翼や大地を駆ける馬の脚、さざ波を立てて流れる川の渦を「静止画で捉える」能力があった。「トンボは四枚の羽で飛ぶ。前の二枚が上がるとき、後ろの二枚は下がる」と、レオナルドは1490年頃のメモに書き記している。これにはびっくりだ。

レオナルドの最大のライバル、ミケランジェロには映像記憶の才能があり、視覚で捉えたものを正確に再現して形にできる能力があったので、正確な比で描画することができた。電気技師のテスラは、たいそう覚えが早かった。というのも、彼も直観像による記憶能力があり、たとえば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』なども一字一句違わず暗誦できたからだ。

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