「物語という共感装置」がもたらすダークサイド 「強い憎しみ、強い愛」から世界を救う2つの手段

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ゴットシャルが引用している歴史学者リン・ハントによれば、18世紀になってから奴隷制、家父長制、拷問などが「突如として非難されるようになった」ことの大きな原動力は「新しいストーリーテリングの形態、すなわち小説の登場」だったそうである。

「ハントによれば、小説は自分の家族や血族や国やジェンダーの外にいる人々に共感することを教え、それによって人類史において最も重要な道徳革命のきっかけを作った」(前掲書174頁)

これはストーリーテリングについての気の滅入る話ばかり読まされてきた読者にとっては例外的な朗報である。ハントによれば、共感能力は筋肉のようなもので、フィクションを消費すれば消費するほど共感の「筋力」は強化されるのだそうである。にわかには同意しがたい意見だけれども、文学的素養のない人たちが他者の内面についての想像力の行使を惜しむ傾向があるのはたしかな事実である。

ゴットシャルが期待するもう一つの知的な装置は科学である。

「科学は本質的に、現実に関するナラティブのどれが真実でどれが偽物かを見つけ出すために人間が考え出した、最も信頼のおける手法である。(…)科学は、私たちのエゴや物語が私たちに見せたいものではなく、私たちの目の前に実際にあるものを強制的に見せる一つのツールである」(前掲書238頁)

「真か偽か」ではなく「公共的か否か」

 この科学への信頼という点で(プラトンへの手厳しい批判と併せて)ゴットシャルがカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』の熱心な読者だったことが推察される。

「ロビンソン・クルーソーは科学的であり得るか?」というわかりやすい例を挙げて、ポパーは「科学性とは何か」について独特の定義を下した。

無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが孤島に研究室を建て、そこで精密な観察と分析を行って学術論文を書いたとする。孤独な研究者が発表したその論文の中身は現在の自然科学の到達点とみごとに一致するものであった。さて、クルーソーは「科学者」だと言えるだろうか?

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