「物語という共感装置」がもたらすダークサイド 「強い憎しみ、強い愛」から世界を救う2つの手段

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このようなシニカルな態度は「ポストモダニズムの頽落した形態」だと診断する人たちがいる。傾聴に値する知見だと思う。

ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。

しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑にとどまることに疲れて、「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。彼らはこういうふうに推論した。

「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である 」

こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。

ロシアのウクライナ侵攻は「ウクライナの指導部はナチだ」という「ロシアのナラティブ」の帰結であるが、政策の淵源が妄想的なナラティブであることは戦争で現実に人々の身体が破壊され、都市が焼かれることを妨げない。いや、むしろ妄想的なナラティブほど強い現実変成力を持つ。

「共感の過剰」が排他的な暴力の起源

ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす』はこのようにして「物語は世界を滅ぼしつつある」現実についての豊富な実例の提示と、そこからの離脱の企て(これは希望的観測にとどまる)を記したものである。その問題意識は次の言葉に尽くされるだろう。

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