「物語という共感装置」がもたらすダークサイド 「強い憎しみ、強い愛」から世界を救う2つの手段

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ポパーは「言えない」と答える。ロビンソンの科学には科学的方法が欠如しているからである。「彼の成果を吟味する者が彼以外におらず、彼個人の心性史の不可避的な帰結であるもろもろの偏見を訂正しうる者が彼以外にはいない」からである。

「人が判明でかつ筋道の通ったコミュニケーションの修練を積むことができるのは、ただ自分の仕事をそれをしたことのない人間に向かって説明する企てにおいてだけであり、このコミュニケーションの修練もまた科学的方法の構成要素なのである」(『開かれた社会とその敵』、強調は内田)

それはロビンソンの科学的知見が間違っていたということではない(実際に正しかったのである)。そうではなくて、ある言明が科学的であるか否かは、その言明が「真か偽か」のレベルにではなく、「公共的か否か」のレベルにおいて決されるということなのである。「私の言うことは真理である。誰が反対しようが私の言明の真理性は揺るがない」と揚言する人の語る言葉は(たとえ真であっても)科学的ではない。「私の仮説は間違っているかもしれない。それについての事後的検証を待ちたい」と語る人の言明はたとえ間違ったものであっても科学的である。そういうことである。

「われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物なのである。そして、科学者の個人的な不党派性は(仮にそのようなものが存在するとしてだが)この社会的あるいは制度的に構築された科学的客観性の成果なのであって、その起源ではない」(前掲書、強調は内田)

わかりあえないことをわかりあう「敬意」と「畏怖」を

 科学が科学的であり得るのはそれが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである。科学者は個人的な努力によって科学的であることはできない。自分が語る科学的言明の真偽、当否についての検証と判断を社会的・公共的な場に委ねることによってはじめて科学的であり得る。

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