岩村はいわくつきの人物だ。戊辰戦争の折、長岡藩家老の河井継之助が「会津藩を説得させてほしい」と新政府に低姿勢で申し出たにもかかわらず、願いを聞き入れなかったのが、新政府軍で軍監を務める岩村だった。その結果、交渉は決裂。長岡藩は会津藩につき、新政府軍との悲惨な全面戦争へと突入することになる。
岩村はこのときに佐賀でも、同じように傲慢な態度をとっている。征韓党と憂国党の両方からの特使として山中一郎がしてやってくると、「答弁の限りにあらず」と聞く耳を持たず、さっさと席を立った。そんな不遜な態度を報告されれば、征韓党と憂国党が怒りに燃えたことは言うまでもないだろう。
「一戦もやむをえず」というムードが漂うなか、江藤は反政府勢力の指導者としてかつぎあげられてしまう。
木戸が罵倒した「キョロマ」を大久保は抜擢
岩村が佐賀の県令に選ばれたとき、木戸は大久保を猛烈に批判している。
「岩村のごときキョロマを遣るとは、これ実に国家の大事を誤るやり口だ」
「キョロマ」とは長州の方言で「短気で、考えが浅い人」のこと。佐賀の状況を考えれば、県令には、不平士族を抑えられるだけの、思慮深さが必要なはず。過去にろくに相手の言うことも聞かずに、交渉を決裂させたような男を選ぶべきではない。木戸の忠告はもっとものように思える。
だが、大久保からすれば、まさに「キョロマ」こそが、このときの佐賀の県令にふさわしかった。思慮深い人間になられては、相手を挑発することができない。岩村をあてがったおかげで、思惑どおりに佐賀の士族たちはたきつけられて、ついに新政府軍と衝突する。
翌日の16日、佐賀城の西堀で優国党員の十数人が、鎮台兵ともめ事を起こして、口論から斬り合いとなった。鎮台兵が佐賀城に逃げ込むと、憂国党員がそれを追撃。少しずつ憂国党員の人数が増えていき、本格的な打ち合いが開始される。これが「佐賀の乱」の幕開けだ。
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