大久保にとって、事実かどうかなど、どうでもよかった。「明治6年の政変」によって、西郷隆盛は下野し、それに伴い江藤新平、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らの参議も辞職。西郷を慕う数百名の将校も、勝手に鹿児島へと帰ってしまった。
明治政府の今後は、ただ1人、大久保の両肩にかかっている。反政府軍が1つにまとまると厄介だ。そうなる前に叩いておかねばならなかった。キレモノの江藤が故郷の若者からの求めに応じて、東京から離れて佐賀に向かったのは、千載一遇のチャンスだった。
大久保自らが「佐賀に乗り込む」と言い出したとき、三条実美や岩倉具視は反対している。しかし、今の大久保にとって二人の反対など、とるに足らないものだ。すぐに病床にいる木戸孝允のもとを訪ねて、同意を得ると、改めて三条から正式に出張命令を受けている。
軍事、行政、司法の全権委任を担った大久保は、確実に江藤を仕留めようとしていた。
パニック状態に陥っていた佐賀に入った江藤新平
一方の江藤はといえば、不平士族をなだめるために、東京を離れて佐賀に入ったが、思った以上の混乱ぶりに、いったん長崎へと逃れていた。江藤は中央政治で活躍したのち、佐賀に戻って、藩政改革に携わった時期がある。その改革への恨みから命を狙われており、暗殺計画も持ち上がっていた。佐賀にとどまることは危険だったのである。
それでも江藤は同郷の仲間を捨てておくことができなかった。長崎から再び佐賀に入る。そこで江藤が目にしたのは、依然よりも悪化している佐賀の状況だった。
「熊本鎮台の兵がこれから乗り込んでくるらしいぞ!」
そんなうわさが飛び交い、家財道具をまとめて逃げ出す人々で、パニック状態になっていたのである。そして2月15日、佐賀県権令の岩村高俊が熊本鎮台の兵を率いて、佐賀城に入ってきた。
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