これまで述べてきたように、朝鮮半島の伝統的儒教文化では「道徳的正しさ」にこだわる。そして「本来あるべき論」を求め、過去にさかのぼって「歴史をあるべきものに戻す」という傾向が極めて強い。
ただ念のため再度強調するが、現代の個人レベルではまったくそうではない人もたくさんいる。儒教嫌いを公言している韓国人の若者も少なくない。
しかし政治といった比較的高齢世代が多く、「民族的記憶」や「民族的アイデンティティー」で集団意思決定がされる場になると、この儒教文化がいまだに色濃く影響するのである。
「真相究明の国」vs.「水に流す国」が争うと…
この「過去にさかのぼったしつこさ」は、ひとえにその「先祖の魂は不滅」という儒教的死生観も一因であるように思われる。
実際のところ韓国では、下手したら死後も責任を問う傾向が強い。たとえば韓国ドラマでも日常生活でも「最後まで責任を問う」という言葉が頻繁に出てくる。現代の政治家でも、相手方に対し「墓を掘り起こして処罰」みたいな言葉を使ったりもする。
日本のような「武士の情け」はなく、責任追及はちょっとやそっと、死んだくらいでは終わらない。儒教の世界では、「死後もその魂はこの世に長らく存在しつづける」と考えられていた。
そして、儒教文化にのっとり、先祖の功徳や罪状は後世の子孫にも引き継がれるので、「悪いことをしたのだから、罪を徹底的に償うべきだ」というように、子々孫々の代まで徹底追及してくる。
このように、過去にさかのぼり徹底的に責任追及する儒教文化が、「死ねば皆、天に行く」という仏教的な思想や、「過去を水に流す」武士道の思想と対立すると、双方の違和感につながるのだ。
そんな文化の違いがあるなか、「真相究明の国」vs.「水に流す国」が争えば必然的に、
にそれぞれつながり、まさに「イマここ」状態なわけである。
なおこのコラムを書いている今も、韓国新政府が「徴用工問題の解決は、日本側の誠意も必要」とメディアに向け語っていた。
「法的に払ったやろ!」などの建前的アプローチではなく、感情がこもっているかどうかが、何をするにしても韓国側にとっては重要だと考えているのである。
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