「初代天皇の建国」はなぜ「九州」から始まったのか 宮崎から奈良へと至った「神武天皇の東征」
古事記・日本書紀において、神々の系列は、アマテラスに発するものと、スサノオに発するものの2つに分かれている。
アマテラスからは、アメノオシホミミが生まれ、アメノオシホミミの子が天孫降臨を行うニニギである。ニニギの孫がウガヤフキアエズで、神武天皇はその子にあたる。この系列に属する神々は天津神とされ、葦原中国を制圧し、平定する側にある。
スサノオは、アマテラスの弟であり、イザナギから生まれたわけだから、本来なら天津神に属するはずである。
ところが、乱暴狼藉を働いたことで高天原を追放され、それによって天津神の系列からは外されてしまう。そして、その子孫はオオクニヌシからはじまって国津神と位置づけられている。国津神は制圧され、平定される側に属している。
そこに現実の歴史がかかわっているとするなら、天津神は外来の征服民であり、国津神は土着の被征服民であるということにもなってくる。
そこから生まれたのが、終戦直後の1948年に考古学者の江上波夫が唱えた「騎馬民族説」である。4世紀のはじめに、天皇家を含む騎馬民族が朝鮮半島を経て九州に侵入し、5世紀はじめまでに畿内に政権を打ち立てたという説である。
この説は当時一世を風靡したものの、その後は、考古学上の明確な発見がなかったこともあり、むしろ批判の方が多くなっている。とても騎馬民族説が定説になったとは言えない。
神話をどうとらえるかは難しい問題をはらむ
今から振り返ってみるならば、騎馬民族説が唱えられたのは、日本が連合国によって占領されていた時代においてである。海外の勢力に征服されている時代の空気が影響していたことは十分に考えられる。
どの民族においても、神話をどうとらえるかは難しい問題をはらんでいる。近代においては考古学という学問が発展を見せ、文献史料のない古代についても、さまざまなことが明らかにされてきた。それによって、神話を歴史上の事実と見なすことができなくなってもきたのだが、神話は一貫した筋書きを持つ物語であるがゆえに、それをもとに歴史を語りたいという願望を生む。
そして、歴史が空白である部分に関しては、神話をもとに語られることも少なくない。例えば、世界史の教科書では、現在においても、ユダヤ民族の歴史を語る際にモーセのことが持ち出されていたりする。モーセが神話的な人物であることは間違いない。とても実在したとは考えられないにもかかわらずである。
しかも、神話は、現代においてもかなりの影響力を発揮している。その点は、神武天皇以降の歴代の天皇の物語を見ていくことでより鮮明になってくることであろう。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら