小説『地図と拳』が描く日露戦争前夜の緊迫情景 「序章」を全文公開、男はロシアの根拠地に渡った
急いでください、と細川が言った。船が左に舵を取り、左右に大きく揺れた。船着場が近づいていた。
「支那人たちは互いに情報を共有し、ナイフや地図など、ロシア兵に見つかると厄介なことになるものを河に捨てていたんです。今ロシア軍は、間諜がハルビンにやってくることをもっとも恐れています。ここが彼らの根拠地だからです。外国人がやってくれば彼らはかならず警戒します。それが極東の覇を争う相手である日本人であれば、なおのこと」
船が減速する。桟橋にロシア兵が待っているのが見えた。
時間がない。高木は慌てて鞄からピストルを出すと、勢いよく河に向かって投げた。小さな黒い点が河に沈んでいく。その様子に注目しているロシア兵がいないか確認するが、見たところ船の反対側まで見ている者はいなかった。
ゆっくりと動いていた船が停止して、錨(いかり)が下ろされた。
しばらくすると支那語の指示が飛び、桟橋に舷梯(げんてい)が架けられた。船室いっぱいに積まれていた貨物が運びだされている間に、銃を持ったロシア兵たちが乗船してくる。舷門の近くにいた労働者に「荷物を見せろ」と言い、袋の中身を確認しはじめている。一人が荷物を確認している間、もう一人は服を脱がせ、何かを隠し持っていないか検査しているようだ。
「自分の命より重要なんですか?」
船頭にいた高木と細川は、その様子を遠くから眺めていた。
「他に何か、見られるとまずいものはありませんか?」
細川が聞く。高木は迷った末に、「ある」と正直に答えた。
「なんですか?」
「小刀だ。だがこれは戦闘用ではない。自決のために持っている」
「捨ててください。ロシア兵にとってあなたの小刀が戦闘用だろうが自決用だろうが、あるいは料理用だろうが関係ありません。かならず厄介なことになります」
「それはできない」と高木は答える。「大事なものなんだ」
ロシア兵が検査を終え、順々に労働者たちを船から降ろしていく。
「急いでください」と細川が言う。「今ならまだ間に合います」
「駄目だ」と高木は首を振る。これは自分が軍人である証(あかし)なんだ。そう口にしかけてやめていた。すでに十五人ほどが下船を許されていた。最初に検査を受けていた支那人が桟橋を渡りきって街の中へ消えた。桟橋では荷下ろしの労働者たちが支那語とロシア語の両方で何かを叫んでいた。強い風が吹き、河に波が立って船が揺れた。よく晴れた日だった。
「自分の命より重要なんですか?」
もっともな問いだ。高木は周囲を確認した。こちらを見ている者はいなかった。懐に手を伸ばし、河の方角を向いてから、ロシア兵たちに見えないように小刀を取りだした。もう一度周囲を見る。誰もこちらを見ていない。今なら河に投げ捨てることもできるだろう。命より重要なものなど存在しない。
思いきって小刀を投げようと振りかぶる。
だが、できなかった。
高木は振りかぶった手を下ろし、鞄の中に小刀を隠した。
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