小説『地図と拳』が描く日露戦争前夜の緊迫情景 「序章」を全文公開、男はロシアの根拠地に渡った
ハルビンは松花江の大河と東清鉄道が交差する物流の要衝だ。かならずやハルビンは兵站(へいたん)の中心になる。ロシアはこの地を支那侵攻の根拠地にするに違いない。参謀本部にはそう伝えなければならぬ。頭の中に覚書を残しながら、細川に顔を向ける。
「昨日船上で横になりながら、二つのことを考えました」
細川が言った。「一つは今お話しした、僕が生まれた日のことです。昨日から急に、船上の労働者たちが河に私物を投げこみはじめたからですね。河に浮かんだものが船の横に漂うのを見て、僕は漂流した父のことを思い出したわけです」
「もう一つは?」と聞く。
「ハバロフスクから消息を絶ったという先人たちのことです。彼らはどうして生きて帰れなかったのでしょうか。僕のように船で体を壊し、そのまま河に捨てられてしまったのでしょうか」
「まさか。《陸軍》はお前のような軟弱な者ばかりでは──」
細川が「静かに」と口元に指を当てる。高木はそこで自分が「陸軍」と口走ったことに気がついた。
自分は茶商人であり、軍人ではない。たとえ日本語であっても軍に関する話をしてはならない。そのことは細川と何度も確認していた。もし自分の立場が発覚すれば国際問題になるだろう。ロシアの根拠地に日本の軍人がいたのだ。ただでさえ、支那や朝鮮の領有権や大津事件で日本とロシアの関係は悪化している。戦争になるかもしれぬ。
「ピストルを河へ捨ててください」
「すまない」
「いいんです。気にしている人はいません。それにどちらにせよ、僕なんかには、《あなたの仕事》は務まらないでしょう」
細川が「そういえば、お伝えしなければならないことがあったのでした」と続けた。「鞄に入っているピストルを船が到着する前に河へ捨ててください」
「なぜだ?」
「船が着いたら、ロシア兵が甲板へやってきて、乗客の所持品をすべて調べるからです。ピストルが見つかれば間違いなく逮捕されるでしょう。もしかしたら処刑されるかもしれません」
「どうしてそんなことがわかる?」
「昨日から労働者たちが河に私物を捨てるのがなぜか、ずっと気になっていたんです。先ほど王さんに聞きました。五ルーブルを渡したら、所持品検査のことを教えてくれました。以前にもこの船に乗ったことがあるから知っていたそうです。前のときも、所持品検査のことを知らない日本人がピストルを持ちこんで、ロシア兵に連れていかれたようでして」
「本当か?」
「わかりませんが、辻褄(つじつま)は合います」
「敵国で武器を捨てろというのか?」
「武器を捨てなければ殺されるのです。あなたの先人の何人かも、もしかするとピストルのために命を落としたのかもしれません」
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