小説『地図と拳』が描く日露戦争前夜の緊迫情景 「序章」を全文公開、男はロシアの根拠地に渡った

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水筒、手帳、手拭い、着替え。ロシア兵が茶葉の入った紙袋を手にとって中身の匂いを嗅ぎ、「これはなんだ」と聞いてくる。細川が「茶葉です」と答えたが、後ろに控えていた別の兵士に手渡し「検疫係に回す」と言った。鞄の底に縫いつけたルーブル紙幣の袋を見つけると、何枚かを抜いて「検査料だ」と言う。

それらの会話の意味はわかっていたが、高木は何も口にすることができなかった。緊張で口が動かなかった。一つ一つ鞄の中身を調べていたロシア兵が、小刀に巻いた長衫を手に取った。滴った高木の汗がぽたりと甲板に落ちた。兵士の顔を見る。その奥で、後ろに立っていた男がまだこちらに銃口を向けている。

河に飛びこめば助かるだろうか、と考える。もちろん駄目だろう。ここは敵の根拠地で逃げ場などないし、もちろん友軍もいない。運よく河を渡りきったとしても、対岸もロシアが支配している。

丸められた長衫を手に取ったロシア兵は、少しだけ首を傾(かし)げてから興味を失ったようだった。その様子を横目で見ながら、高木は胸を撫でおろした。他にも見るべき品物が多数ある。着替えごときに時間を使っているわけにはいかない。

ロシア兵が鞄に戻そうとしたときだった。彼が手を滑らせ、長衫が甲板に落ちた。ことん、という硬いものが床にぶつかる音がした。ロシア兵はその音を聞き逃さなかった。長衫を広げ、中に入っていた小刀を取りだした。

「なんだこれは」

ロシア兵は小刀を持ったまま上官のところへ行った。上官は小刀を受け取り、慣れた手つきで鞘を抜いた。磨かれた金属の刃が光った。

「軍用だな」と上官がつぶやいた。

上官が何か掛け声のようなことを叫んだ。すぐに、他の場所で検査をしていたロシア兵の何人かがこちらに走ってきて、囲むように銃口を向けた。

「この小刀はどっちのものだ?」

上官が細川に聞いた。

一瞬のうちに、高木の脳裏に数々の言葉が往来した。護身用だ。友人から譲ってもらっただけだ。ハバロフスクの闇市場で買った。昨夜甲板で拾った。とにかく何かを口にしようとした瞬間だった。

「私のものです」

細川がそう答えていた。

細川ともう一度会えるとは思えなかった

それからはあっという間だった。

ロシア兵は数人がかりで細川を乱暴に拘束した。兵士たちが細川を連れ、船から降りていった。太平洋で漂流したという、細川の父の話を思い出した。助かったら陸で会おう、と叫びたい気持ちになったが、もう一度会えるとは思えなかった。

ロシア兵の何人かはそのまま残り、まだ調べていない労働者たちの検査を続けていた。上官が「この中に、他の日本人はいるか? 隠しても無駄だぞ」と大声で聞いたが、誰も返事をしなかった。そのことを確認すると、上官は細川を拘束した兵士たちと発着場の方へ消えていった。残った兵士が細川の鞄を入念に調べてから、高木に全裸になるよう指示した。衣類まで詳しく調べ、危険なものがないとわかると、高木は服を着るよう言われた。着替え終わるとすぐに二人組の兵士がやってきて、両手を縛られて船から降ろされた。

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