小説『地図と拳』が描く日露戦争前夜の緊迫情景 「序章」を全文公開、男はロシアの根拠地に渡った

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注目の作家が日露戦争前夜の緊迫感を描きます(写真:Ystudio/PIXTA)
『ゲームの王国』で山本周五郎賞を受賞し、『嘘と正典』で直木賞の候補にもなった小説家・小川哲さんの3年ぶりの新刊『地図と拳』。物語の舞台は、日露戦争前夜から第二次大戦までの満洲(現・中国東北部)。日本・中国・ロシアのさまざまな視点で描かれる、一気読み必至のエンタメ巨編です。
今回、集英社とのコラボにより、『地図と拳』の〈序章〉1万2000字を全文公開します。
【注記】
本作品は二十世紀前半の満洲地域(現・中国東北部)を舞台にしており、歴史的事件に加え、当時の日本人が中国、中国人の呼称として使っていた「支那」「支那人」など、今日の人権意識に照らせば不適切な差別的呼称・用語が使用されている箇所があります。それらは、当時の日本人の思考や行動を描く上で、作中に時代性や社会状況を反映するために必要と判断しました。小説として俯瞰的に描かれることで、いまだ存在するこうした差別や偏見を生み出した状況や人間心理を批評的に捉えなおす契機となると考えております。読者の皆様のご理解を賜りたくお願い申し上げます。(集英社文芸編集部)

一八九九年、夏

松花江(スンガリー)の船上ではあらゆるものが腐った。水が腐り、饅頭(マントウ)が腐り、人間が腐った。腐ったものを船の上から松花江に捨てるのは、元の時代からの習慣だという話である。先日は発狂した男が首を絞めて殺され、そのまま河に捨てられた。死体を捨て終えた支那人の苦力(クーリー)は「霊魂(リンフン)が腐っちまったんだな」と言った。「身体(シェンティ)が腐る前に捨ててやらないとね」

高木(たかぎ)は甲板の端に立って小便をすませると、鞄の底で腐っていた饅頭を河に向かって一個ずつ捨てていった。隣に立った王(ワン)という支那人が、痩せた男の死体を両腕で抱えている。昨夜船上で喧嘩をしてナイフで刺され、失血で死んでしまった男だ。一晩中放置された死体から腐臭が漂っており、高木は思わず顔をしかめた。

「こいつは燃えない土だ」

落とした死体が水しぶきをあげ、そのまま深い河底に沈んでいくのを見届けながら、王がつぶやくように言った。

高木は「どういうことだ?」と王の顔を見る。

「俺たちの村では、役に立たない塵芥(じんかい)のことを『燃えない土』と呼ぶんだ。あの男はもう死んだ。だから『燃えない土』なんだ」

「なるほど」

高木は「燃えない土」を二つ持っていた。一つは饅頭で、もう一つは通訳だった。腐った饅頭をすべて捨て終え、二つ目の「燃えない土」であるところの、細川(ほそかわ)という役に立たない通訳を見る。

今年で二十一歳と聞く。軍とは無縁の大学生だったが、支那語とロシア語が両方できる男を他に見つけられなかった。顔色は相変わらず悪そうだ。肺病患者のように腕は細く、支那の陽射しに焼けた真っ赤な顔の上に厚い丸眼鏡を載せている。

乗合船ではほとんどの時間を甲板から嘔吐するか、下痢をするか、横になるかして過ごしていた。体力は驚くほど乏しく、若いのにまったく胆力がない。昨日も、支那人同士の喧嘩が始まると一目散に船尾付近まで逃げ、あたりが静かになるまで目を閉じて座りこんでいた。喧嘩が終わって放置された死体を目にすると、甲板の端まで走ってやはり嘔吐した。

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