小説『地図と拳』が描く日露戦争前夜の緊迫情景 「序章」を全文公開、男はロシアの根拠地に渡った

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そんな過酷で退屈な船旅もついに終わろうとしていた。目的地までもう少しだった。ようやくこの長い航海が終わるのだ。

高木は昨夜、支那人から「正午までには目的地のハルビンに着く」と聞いていた。

ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよ

長い道のりだった。

参謀本部から特別任務を命じられたのは昨年の暮れだ。ハバロフスクからハルビンへ向かい、可能であれば奉天以南まで渡り、都市の立地、商業、資源、軍備、思想を──もっと言えば、ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよという任務である。まだ戦場の経験のない高木にこの特別任務が与えられたのは、高木が簡単な支那語を話すことができたからだろう。

不凍港を求めて南下を続けていた帝政ロシアはシベリア鉄道を旅順港まで延ばし、日清戦争で朝鮮と台湾に手を伸ばした日本の脅威になりつつあった。高木の任務は、そのロシアの懐に潜入するというものである。

日露で戦争が起きれば、かならず満洲が戦場になる。これまで何人もの軍人が満洲への調査任務を与えられてきたが、そのほとんどがハバロフスクで引き返していたし、先へ進んだ一部の者はみな消息が途絶えていた。ロシア軍は間諜(かんちょう)に容赦をしないと聞いていた。見つかれば拷問を受けて殺されるという噂もあったし、シベリアで強制労働をさせられるという噂もあった。高木自身も、ハルビンへの潜入は非常に危険が伴うということは、百も承知していた。

高木はウラジオストクに入り、二ヶ月ほどロシア語の勉強をしてから、晩餐会(ばんさんかい)などに積極的に参加して知事に近づき、茶商人に化けるための書状を出してもらった。商店で買った茶葉と書状を携え、新設されたシベリア鉄道でハバロフスクへ渡った。そこで現地調査をしながら、今回の任務を共にする通訳の細川を待った。

ハバロフスクには女郎屋、労働者、写真屋、飲食店員、坊主などに紛れた日本人も多く、一ヶ月の滞在でロシア軍に関する様々な情報が入ってきたが、調査任務中は一時の油断もできなかった。ハバロフスクにはロシア総督府や満洲方面軍の基地が置かれていたこともあり、街路では鉄砲を持った兵士が常に目を光らせていた。

高木はロシア兵の装備や街の人口、商業規模や採取可能な資源など必要な情報を収集し、それらを秘密便で参謀本部に送ってから、留学先のペテルブルグからやってきた細川と合流した。

二人は次の潜入地点であるハルビンへ向かうため、支那人や朝鮮人の人夫たちとともにアムール川を遡っていく船に乗りこんだ。大河を西に進み、ミハイロセメノフスキーで船を乗り換え、今度は松花江の上流へと向かった。支那人、朝鮮人の苦力たちがひしめき合う中、乗合船の甲板の上で寝泊まりをしなければならなかった。

死に物狂いで船尾付近に定位置を確保し、甲板の端から排便をし、就寝時には汗臭い苦力たちと肌を寄せあうという劣悪な環境で、二週間あまりを過ごした。

「高木さんは、関東の出身でしたよね?」

いつの間にか隣に立っていた細川が、足元に鞄を置きながら言った。視線の先には濁った河と青銅色の空が広がるばかりで、ハルビンはまだ見えないし、その気配もない。

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