「会議室の外と中の会話が同じ」なのが危険な訳 本音と建前をわけなくなると起こること

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会議で言うことと、会議の外で言うことは違うほうが健全――。本音の建て前の「二段構え」を維持できなくなると、何が起こるか(写真:PIXTA)
コロナ禍により、一時「オンラインでも飲み会はできるから、集まっての会食はもういらない」といった議論が続出した。実際に他人と会って接することを避ける「身体性への忌避感」について、哲学者と元歴史学者である評論家が論じ合う(與那覇潤著『過剰可視化社会』より一部を抜粋し再構成しました)。

「対面での会議」を廃止できない理由

與那覇:千葉さんは『欲望会議』(二村ヒトシ氏・柴田英里氏との共著、角川ソフィア文庫)で、いまや「炎上がセックスに代わりつつある」という大胆な洞察を述べていますね。同一の価値観の持ち主が、ネット上で特定の相手を叩いて一体になる際の快感が、もはや現実の身体同士で接触する性的な快楽を代替しはじめていると。

言い換えると、触覚に対して、視覚が人間の生に占める割合が突出してきていませんか。実際にコロナ禍でも、一時は「オンラインでも飲み会はできるから、集まっての会食はもういらない」といった議論が続出しました。

千葉:全般的に身体性への忌避感が広まっているのはたしかです。他者の身体に自分が侵食されることへの怖れですね。村田沙耶香さんの小説はそんな現代性を捉えていて、他人がものを食べている姿が気持ち悪いといった感覚をグロテスクに描いています。

與那覇:現実の他者の前では、視覚だけでなく触覚的にもその存在を感じとって、時に鬱陶しくなるわけですが、しかし相手がバーチャルでボタンを押せば即画面から「消せる」ようになるのも、また別の問題を生じますよね。

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