重要な会議のあと、一歩部屋の外に出たら「さっきはああ話したけれど、実際のところは……」という会話が始まるのが普通です。もし会議室の中と外の言葉がすべて一緒でズレない人がいたら、それはもう完全に組織に洗脳されている戦闘員のようなものですよ。
與那覇:仮面ライダーのショッカーですね(笑)。『過剰可視化社会』に収録した、臨床心理士の東畑開人さんとの対談でもその議論になりました。東畑さんは「廊下」の比喩を用いていますが、建前で動く会議室の外に廊下があり、そこで本音を話す二段構えが大事だというわけです。しかしすべてをオンライン化すると、廊下に相当する場が消えてしまう。
千葉:もちろん、会議室的な建前は社会にとって重要で、だから本気じゃなくても「そういうことにしておこう」として演技する。しかしそれが演技だと自覚する場として、廊下の本音も必要になるわけです。
ここで両者の境目をなくせば「すべてが建前通りの美しい空間ができる」というのは錯覚で、逆に全部がウソにしかみえないカオスに陥ってしまう。それがQアノンはじめ、先進国でも陰謀論が流行する背景だと思います。
多義性を扱うレトリックが軽んじられてファクトに座を譲ったように、いまは「言葉と意味とは一対一で対応すべきだ」という信仰が強すぎて、そこから「差別的でない新語にすべてを言い換えて世界を覆い尽くそう」とする発想が出てきた。自然科学的な規則志向やエビデンス主義が、人文学の内部にまで侵入してきました。
ポリコレが「原理主義」と化した現代世界
與那覇:陰謀論とエビデンス主義とは、一見すると正反対ですが、「世界が多義的なものであることを拒絶し、単一の原理のみに回収しようとする」志向では通底しているわけですね。リベラル派が大衆を抑圧する姿勢へと反転した謎を解くカギも、そこにありそうです。
平成初頭に、柄谷行人さんと浅田彰さんが「『ホンネ』の共同体を超えて」といった対談をしましたが(『柄谷行人浅田彰全対話』所収、講談社文芸文庫)、いつまでも建前を実現しようとしない日本社会への苛立ちが、リベラルな知識人にはつねにありました。