日本三大仇討ち「曽我事件」巡る謎の陰謀論の真相 北条時政が源頼朝を殺そうとしていた?
「曽我事件」というのは、鎌倉時代初期の建久4(1193)年5月に起きた仇討ち事件のこと(曽我兄弟の仇討ち)である。曽我兄弟の仇討ちは、江戸時代の赤穂浪士による討ち入り(1703年)、伊賀越の仇討ち(1634年)と並び、日本三大仇討ちの1つに数えられる。著名な事件であり、江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなった。
まず、曽我兄弟とは誰なのか、どのような経緯で仇討ちを敢行したのかについて、まとめておこう。曽我兄弟というのは、曽我祐成(そが・すけなり)と曽我時致(そが・ときむね)の兄弟のことである。彼らの父は、伊豆国の豪族・河津祐泰であった。
河津祐泰(かわづ・すけやす)の父は、伊東祐親(いとう・すけちか)。親平家方の武将として有名であり、源頼朝が伊豆に配流された時は、その監視役となったことでも知られている(頼朝と祐親の娘の間には1子があったという)。祐泰は、父・伊東祐親から伊豆国河津荘を相続したために、河津祐泰と名乗っていた。
伊東祐親と同族の工藤祐経の対立から始まった
さて、伊東祐親は娘を同族の工藤祐経(くどう・すけつね)に嫁がせていたが、祐親は工藤祐経が領有していた伊東荘を奪ってしまう。さらには、嫁がせていた娘をも奪い返し、離縁させる。これに深い恨みを抱いた工藤祐経は、伊東祐親の殺害を決意。刺客をもって、祐親を殺害しようとする(1176年)。
伊東祐親は無事であったが、子の河津祐泰が矢にあたり犠牲となった。未亡人となった祐泰の妻は、幼い十郎(祐成)と五郎(時致)を連れて、相模国の豪族・曽我祐信(そが・すけのぶ)に再嫁する。2人の兄弟が曽我兄弟と呼ばれるのは、そのためである。
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