日本三大仇討ち「曽我事件」巡る謎の陰謀論の真相 北条時政が源頼朝を殺そうとしていた?

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源頼朝が平家打倒のために挙兵すると、伊東氏と工藤氏の明暗が鮮明となる。伊東祐親は平家方につき、頼朝と戦をし、一時は勝利するも、しばらくして敗残の身となり捕われ、自害。

一方、曽我兄弟の親の仇である工藤祐経は、都にいた期間もあったことから、頼朝の寵臣として重んじられていた。曽我兄弟の兄・十郎は、継父・曽我祐信を烏帽子親(武家の男子が元服するときに、親に代わって烏帽子をかぶせる仮の親)にして、祐成と名乗る。弟・五郎は、北条時政を烏帽子親にして、時致と名乗った。

源頼朝が行った巻狩で事件が勃発

そして、建久4(1193)年5月、運命の時がやってくる。平家を打倒し、飛ぶ鳥を落とす勢いの源頼朝が、巻狩を開催するのだ。

同月2日には、北条時政が、巻狩の獲物の状態や宿泊場所を見るために、駿河国に赴いている(『吾妻鏡』)。要は下見役である。

15日には、頼朝が駿河国富士野の旅館に入る。この巻狩には、頼朝だけでなく、北条義時や足利義兼、三浦義澄、梶原景季、そして曽我兄弟の仇・工藤祐経ら有力御家人も参加していた。

狩猟は始まり、翌日、頼朝の嫡男で後継者の頼家が、鹿を射止めたことが『吾妻鏡』に記されている。頼朝は喜びのあまり、鎌倉にいる妻・北条政子に家臣を遣わしてそのことを伝えるが、政子は「武将の跡取りが、野原で鹿や鳥を射て取るのは、珍しいことにあらず。わざわざ、使いをよこすなんて、かえってわずらわしい」と冷めた態度であったという。

27日は夜明け前から狩りが開始され、御家人たちは弓の技を競い合った。何事もなく狩猟は終わるかと思いきや、翌28日に事件が起こる。

その日は、朝は小雨が降っていたが、昼にはやんでいた。深夜0時ごろ、工藤祐経の富士野の旅館に、曽我祐成と時致兄弟が忍び込み、工藤を殺害するという事件が起こるのである。

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